人は出会った瞬間に、その人がどんな人物か分かってしまうものである。なにも知らないのに、その人の表情や声、物腰や振る舞いをちょっと見ただけで、わたしたちはすべてを判断できてしまうことがある。第一印象というのだろうか、直感というのだろうか、その判断はあとで思い返しても正しいことが多い。美術作品や展覧会も同様で、その一部を見ただけですべてがわかってしまうものなのである。
2017年の「ドクメンタ 14」を見に行った。展示作品の全部を見ることはできなかったが、ははあ、こういうことか、とわたしなりに評価をすることができたし、作品を楽しみながら展覧会の構成や企図を分析することができたような気がするのである。
カッセルの駅に到着して駅舎のカフェでサンドウィッチとコーヒーの朝食を済ませてから、われわれは市内に点在している展覧会場の中心地まで電車で移動した。われわれというのは、いっしょにブレーメン近郊にあるアガーテンブルグ城で展覧会をやっているメンバーである。8月でもドイツはとても涼しく、夜は気温が10℃くらいまで下がって寒い日が続いていたのだが、ドクメンタに来た日は例外的に暑くなり、途中でアイスクリームを食べたりしながら歩いた。作品の一つひとつをじっくり見ていくことも重要なのだが、それ以外のこと、見学者の様子だとか、そこで食べたものとか、会場の雰囲気、空気感といったものはとても大切なのである。この展覧会がどんな意味をもって、どんな作用を見に来ている人や、カッセルという街に及ぼしているのかを感じることが出来るからである。
メインの会場は広大な敷地の公園の中に建っているのだが、われわれはまず、野外の作品を見て廻った。巨大な木の骨組みをもった彫刻や、これまた巨大な土管のようなものをいくつも積み上げて、その中に居住スペースを作ったまるでカプセルホテルのような作品などがあったのだが、いちばん印象に残ったのは、草原のような緑のなかに見えた一本の線であった。
近寄って見てみると、その線は抉り取られた地面に現われた土の色なのであった。濃いグリーンの平面に、幅3メートルほどもあるだろうか、深さは50センチメートルくらいで、ショベルカーで掘られたと思われる溝が50メートルほど続いているのだった。水のない川のようにも見えるその溝は、ただ無残な姿でそこにあるのである。なんだ、ただそれだけのことか、と思いながらさらに近づいていくと、溝との緑の境目にあたる場所になにやら緑以外の鮮やかな色がちらついていた。それは、小さな花であった。水色、ピンク、黄色と色とりどりの花が風に揺れている。そして、その花たちは、溝に沿ってどこまでも続いていて、溝の周囲を囲んでいるのだ。自然にこんな花が一列に並んで咲くわけはないので、これは明らかに作家の手によるものであることがわかるのである。土を抉り取る乱暴な仕業と小さく競い合うように咲いている花との対比は、悲しみに似た不思議な情景となっていた。
今回のドクメンタ14のテーマは「移民」であるとのこと。
日本の作家で、移民というテーマで呼応できる作家が何人いるだろうか。そもそもドクメンタという展覧会は、第二次世界大戦後のドイツ文化復興と復活を目指して立ち上げられたもので、最初からある意味、政治的、哲学的な意味合いの濃いものであったわけであるが、「移民」を美術展のテーマとして持ってくる力技には驚かざるを得ない。
今回、日本の作家は一人も選出されていない。当然といえば当然である。
緑の草原を抉り取り、その周りに花を咲かせた作品は、「移民」というテーマと重ね合わせて鑑賞してみると、現代の移民問題の根底を実に鮮やかに浮かび上がらせていることがわかるだろう。
われわれがこういうドイツ独特の、いや、ヨーロッパ特有のコンセプチュアルアートに出会うときに、どうしても日本の美術状況との距離を感じてしまうのだが、どうなのだろうか。
ドクメンタもそうだが、ヨーロッパの美術には、コンセプチュアルアートが多いし、特にドイツに限っていうならば、そのほとんどがコンセプチュアルアートであり、それを表現する手段としては、インスタレーションという方法や映像、写真、パフォーマンスといった手段を使うのである。絵画はない。
一方、日本はというとどうであろうか。街中のギャラリーの展覧会はいわゆる「絵」が圧倒的に多いし、団体展と称する仲間内だけで充足している展示でも壁を覆うのは圧倒的な数の絵なのである。
日本でも40年前、50年前のギャラリーにはインスタレーション作品が溢れ、絵を描いている作家は少数派であったのだが、今ではそんな過去のことは忘れたように絵画が当たり前のように飾られている。
ドイツでは絵画がほとんど見られないというのはどういうことなのだろうか。これは最近の傾向というわけではなく、昔から一貫してそうなのである。日本でインスタレーションが「流行った」というのとはわけが違う。それは、絵画では表現しきれないテーマや現実的な問題や抱えている困難などがあるからだろうと思うのである。そもそも、われわれは美術で何をしようとしているのであろうか。そこの根本のところを問われているということに気がつかなくてはならないと思う。
ドイツで見られるようなコンセプチュアルアートは、ある意味「重く」て理知的で、深刻である。ドイツ人アーティストはよく喋るし、議論が大好きである。それはドイツの哲学の伝統の中で培われて来たものであろうし、戦争を含む「歴史」を背負わざるを得なかったことの現われと見ることも出来るだろう。ドイツ形而上学、ドイツ観念論、フランクフルト学派の国であり、カント、ショーペンハウアー、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、シェリング、ベンヤミン、アドルノ…を生んだ国であることをわれわれは、ドクメンタ展の会場においても思い起こさざるを得ないのである。
作品というものは、思索、思想、哲学を美術という媒介を通して表現されたものなのである。初めに言葉ありき、なのである。
いや、美術というものはそうではなく「自然に」生まれてくるのでは?という方もいるかもしれない。しかし、少なくともドイツでは、そしてこのドクメンタにおいてはそうではない。世界中から選ばれた百数十名の作家たちも同様である。
キャンバスの上で、ああでもないこうでもないと絵具をこねくり回しているうちに自然に出来上がってくるようなものは作品ではないのである。最初から強靭な理論と思想があり、それに沿って作品は作られるのである。そういうふうに作られる作品があり、そういう作品が主流を占めているのが現在の世界の美術の状況であるということは、知っておいたほうがよいだろう。
そもそも美術でわれわれがやりたいことは何であるのか、そういう根本的なところで、われわれ日本の美術関係者は自問するところから始めるべきなのではないのか、と考えさせられたのであった。
お腹が空いてきたので、いっしょに廻っていた作家の小川君と夫人と3人でカフェに入り、昼食を食べた。どこのお店も地元の人や観光客でいっぱいだった。ドイツの大学を出た小川君は、何回もドクメンタを見に来ているし、地元感覚でいる。ケバブが食べたいという彼といっしょにお店を探したが、見つからずに、普通のカフェに入ったのだった。わたしはチキンのハンバーグを頼んだ。
屋外のテラスはいっぱいだったので、室内のゆったりした席に座り、疲れた足を休めながらガラス窓越しにテラスに居るお客さんを眺めていた。みんなビールを飲みながら楽しそうに食事をしている。もちろん煙草も吸う。日本ではオリンピックを前に喫煙に対してもっと厳しくしようみたいな動きがあるが、あれってウソだよね。東京はすでに世界でも一番喫煙にたいして厳しい街になっていると思う。だって、海外だともっと自由に喫えるもの。室内での喫煙には厳しいが、それ以外はとても自由なのである。
お店で食事を楽しんでいるお客さんたちは、ドクメンタの「難解な」作品を見ても、やはり同じように楽しんでいた。わたしが一番ショックだったのはそのことである。作品を見ている一般のお客さんたちの反応というか、楽しみ方を見て、本当に楽しそうにしているなあと羨ましくなったのだ。これも日本とは決定的に違うのである。ここはディズニーランドかと思ってしまうほどたくさんの観客。しかし、誰ひとりとして「難しい」とか「わからない」とか言う人はいない。みんなリラックスして鑑賞し、じっくり味わっているのだ。
ここまで書いてきて、わたしは急に虚しい気分に襲われてしまった。
「おれは何書いてるんだろう?こんなこと書いてどうするのか?」
わたしがごちゃごちゃ書いても、みんなスルーしてしまうし、何かが変わるわけでもないことは分かりきっているからである。
う~ん、でも言いたいことは書いておくべきなのだろうなあ… ドクメンタは凄かった!などと言いたいわけではない。作品一つひとつを見ていくと、感動するような逸品というものはなかったような気もするし、絵画という表現が見られなかったから、「絵画は終わった」と言いたいわけでもない(終わってない)。ただ、「何かが違う」と思ったことを素直に伝えたいだけなのである。「何かが違う」というのは、日本の今の美術というか、作品が「違う」ということなのである。
では「何かが違う」の「何か」とはなにか。そこをもう少し考えてみたい。
日本の美大の学生やごく若い作家たちを見ていて感じるのは、まず第一に「勉強してないなあ…」という印象である。大学で一所懸命に制作をすること、それが勉強だと勘違いしている。勉強とは本を読むことと、他の作家の作品をたくさん見て歩くことである。そしたら作品も変わっていくのになあと思う。
まるでイラストか、と思うようなちゃらちゃらした「カワイイ」作品や、キャラクターもの、美少女を描いて自己満足している困った人たち。超絶技法かなんか知らないが、写真以上!とか言ってその描写力だけを競っている薄っぺらな作品。日本以外の国では見ることのできない絵画コンクールというものに、入選してはしゃいでいる坊ちゃん嬢ちゃん。なんでもいいからただ描き続けていればいいのだと、相も変わらず同じような抽象画を発表し続けるシジフォスみたいな方々。継続は力なり、と勘違いしている御仁。
どうしてもこれを言わなくては、私は死んでも死に切れない、というものがあるのか。そして、それはあなたにとってだけの宝であるのか、そうではなくて、作品を見た人が衝撃を受けて、その人の人生観を変えてしまうほどのメッセージを秘めているのかと言うことに尽きるとわたしは考えるのだが、どうだろう。
今度は映像作品について述べてみたい。
わたしは基本的には映像作品が嫌いである。つまらないからである。ちょっと見てすぐに飽きてしまって、ああ、時間を浪費してしまったと思うことがほとんどである。
ドクメンタではたくさんの映像作品が流れていたのだが、なんと、映像嫌いのわたしのはずだったのだが、その画面に釘付けになってしまったことを告白せざるを得ない。
一つだけ紹介する。
画面の両端から水が勢いよく噴射している。勢いよくというのは、たとえば消防車のポンプから消火のために噴出するような勢いでということである。それは荒れ狂う海からの海水が難破船をめがけて押し寄せるようでもあり、雨をともなった台風のようでもある。画面はほとんど荒れ狂う水しぶきで真っ白になってしまっているのだが、、そのなかには何人かの男女が、横から吹き付けてくる水に翻弄されてのた打ち回っているのが見える。なかには立っていることも出来ずに、倒れこんだままの女性もいる。水に打たれる姿はあまりにも劇的であり、動く絵画のようでもある。おそらくこの十数人と思われる(人数が確認できない)人たちは俳優さんなのではないだろうか。
こういう場面が延々と続いていくのである。音はない。少しスローモーションがかかっているので、人物の動きは生々しく感じられる。ひょっとしたら、わたしが立っているこの部屋の床も水浸しになっているのでは?と思ってしまったほど迫力があった。
映像といっても、それは映画のようであり、大がかりであり、圧倒的なのであった。そして、それは強烈な印象とメッセージを直接的にわれわれの心の中まで突き通してくるのだ。
わたしたちは、パルテノン神殿を原寸大に鉄骨で作り、柱と破風の周りに、何十万冊もの発禁本を纏わりつかせた巨大な作品のある会場のスタート地点まで戻り、ほかのメンバーと合流した。われわれは総勢9名だったのだが、3名ずつ3つのグループに分かれて見学していたのだ。
帰りの電車の時間があるので、急いでカッセルの駅まで戻ったわれわれだったのだが、線路に土砂崩れがあったとかで、電車は90分後に出るとのことだった。たっぷり時間があったので、みんな駅のカフェで軽食を食べながらヴァイツェンビールを飲んだ。見てきた作品について話をする人は誰もいなくて、ただぼうっとしながらビールを飲み続けた。見てきたものを消化して言葉にするのには時間がかかるのである。
2018年1月1日