Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

日常の手触り - 甲斐千香子の方法

初個展で、甲斐千香子は六曲一隻の屏風を1点だけ直接床に置いた( 2016年 9月12日(月)-17日(土) Steps Gallery)。ギャラリー内に1点だけという思い切った展示は、来廊者を驚かせたが、展示の仕方だけでなく、その絵画の内容もそれ以上に衝撃的だった。

ヌードの女性が後ろ向きで寝そべっている。Tバックのパンティーを着けているので全裸というのではないが、それでもほとんど裸なのである。その身体は脱力しきって眠っているように見える。そのヌードは画面いっぱいに描かれていて、等身大よりもかなり大きいので迫力がある。ヌードの周りには洗濯物だとか、傘であるとか、日常的なものが散らばっているところを見ると、これは室内であるらしい。一見したところ、非日常的な不思議な空間に見えるのだが、甲斐によると、これは部屋の中で裸でだらしなくゴロゴロしている妹の姿を描いたのだそうである。シュールレアリスムかとも思えるこの絵画は、実は自分の部屋を、自然主義ともいえる方法で写し取ったものなのである。世界は、なにもわれわれが特別に仕組まなくても、そのままでシュールなのであるということを気づかせてくれる。甲斐はこの作品に涅槃図をもじって「堕楽涅槃図」という皮肉なタイトルをつけた。

ステップスでの2回目の個展(2018年 9月3日(月)-8日(土) Steps Gallery)では、30点以上の小品を並べ、ナンバーを振り、全体を「すごろく」として提示した。これらの作品も基本的には「日常」をそのまま描いたものということができるだろう。そのなかでわたしが気になったのは、一万円札を持った手を描き、「衝動買い」というタイトルを付した作品であった。一万円札をリアルに描写しているのではないのだが、差し出した手と相俟って、妙に生々しい雰囲気を醸し出しているのだ。この札は、様々なモノと交換することが出来る、生きるための資本である。

これは、たとえば、赤瀬川原平の「千円札」とは根本的に異なっている。赤瀬川が千円札をコピーしたり、ドローイングとして提示した作品とは描こうとする姿勢が違っているということである。赤瀬川の場合は、そのリアルさとは裏腹に、千円札の「生々しさ」は完全に消えていて、その記号性だけが突出している。貨幣の記号性を問題にした作品なのである。「千円札」作品が裁判になり、模造、あるいは偽札として槍玉に挙げられたのは、実は、それがリアルであったからではなく、貨幣の記号性とその不確実性をクローズアップしたから、「社会」にとって危険であると見なされたからなのである。

甲斐の「一万円札」は記号ではない。この一万円札は牛丼にもなるし、アクセサリーを買う資金にもなる。これで交通費も払えるし、ビールで乾杯することもできるナマなのである。現金を現ナマとはよく言ったものである。この一万円札は記号ではなくリアルな日常なのである。甲斐の描く世界は生々しい。

2019年4月、甲斐はジョイフル本田という店舗内の空間で個展を開いた(4月4日(木)-21 日(日) ジョイフル本田ニューポートひたちなか店)。この個展には「住む、ピース」というタイトルがつけられた。暮らしの中の日用品という意味であろう。そのタイトル通りに、日常生活で使う様々な道具や雑貨が描かれた。この作品群はモチーフだけでなく、描かれた支持体も壁紙という日用品であった。10センチ四方に切ったいろいろな模様の入った壁紙に甲斐は「住む、ピース」を描き続け、その数は1000点にものぼった。この壁紙も日用品を売るホームセンターで仕入れたものである。

自然にそうなったのか、あるいは意図的にそういう方向に向かったのかは、わからないが、彼女は自分の身の回りに目を向け、それに執着するようになっていったようだ。

ニーチェは 「自分の肉体以外に信頼できるものなどあるだろうか。」 と訴えかけたが、甲斐は、自分の日常以外に頼りになるものはないのだと言おうとしているように思える。

今回のステップスでの個展(2019年9月9日(月)-14日(土) Steps Gallery)に、甲斐は 「移 植 住」というタイトルをつけた。これはもちろん「衣食住」をひねったものだが、甲斐の日常性は「住む」という人間の営みに敷衍されていっていることが伺える。「衣食住」と「移植住」ということばは、わたしに「建てる、住む、考える」という、ハイデガーがかつて行なった講演のタイトルを連想させた。

ハイデガーがいう「住む」というのは定住するという意味である。しょっちゅう引越しをして落ち着かなかったニーチェは「住む」ということをしなかった。ここでハイデガーの講演内容に立ち入ることはせずに、そのタイトルだけに注目してみると、住む前に建てるという行為が前提としてある。今回の個展のステートメントに甲斐は「子供の頃、私は近所の草むらに秘密基地を作って遊んだ。」と書いた。現代のわれわれは、住むときには、すでに作られた(建てられた)住宅やアパート、マンションなどに移り住むということがほとんどなわけであるが、子供が「秘密基地を作る」というのはハイデガーのいう「建てる」の意味に近いのではないかと思うのだが、どうだろうか。

そして「住む」であるが、甲斐は、意外な場所に作られた秘密基地の中に日用品を持ち込んで、場所と物との間の違和感が、次第に馴染んでいくところが面白かったと語る。これも、そこに落ち着いていくという、その気持ちの変化がハイデガーの「住む」と重なって見えてくるのである。ハイデガーは、「住む」の次に「考える」ということをもってくるのであるが、強引に結論を急げば、考えることが生きることなのである、とハイデガーは言いたいのだと思うのだ。「住む」だけでは「生きる」ことにならない。そこに馴染んで、日々の営みを繰り返し、そしてそこから「考える」という人間の中心をなす行為が生まれてくるのである。

今回の個展では、昔作った彼女の「秘密基地」をギャラリー内に「移植」する。

秘密基地のなかで、甲斐千香子は、何を考えるのだろうか。

 (よしおかまさみ/Steps Gallery 代表  2019年9月)

03-6228-6195