Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

ずっと明日

坂本九が歌った「明日があるさ」は、ちょっと甘酸っぱい歌であるが、思わず口ずさんでしまうような元気の出る曲でもある。「あっしーたーがあーるー」と声に出して歌えば青春に戻ったような錯覚をしてしまうのであるが、この曲が歌われる時と場合を間違えてはならない。極端な例を言ってしまうと、次の日に刑の執行が確定した死刑囚の前でこれを歌ってはいけない。ブラックユーモアにもならないだろう。

「明日があるさ」は、明日、確実に生きているであろう人たちが自分たちのためにうたう歌である。明日があるというのは、今われわれは生きているし、明日も生きているはずであるという確信があるからこそ自分たちの未来を明るく描いてみせることが出来る言葉なのである。

毎日おなじことを繰り返す日常生活をやりきれないと感じている人はたくさんいるだろうし、その倦怠感に同感することも出来る。しかしその毎日のルーティンが続いていくということは、われわれが生きていることの証でもあるのである。今朝コーヒーを飲んだこの店は、たぶん明日も来ることになるだろう。今乗っているこの電車で明日も同じように通勤するのである。生きているという実感と充実は、明日もこれが待っているという確信から生まれてくるのである。

大岡昇平は、ある小説の中で、このことを橋を渡る兵隊である自分に語らせている。切羽詰った戦況の中で、彼は橋を渡るのだが、そのときに、彼の脳裏に浮かんだのは、おれはこの橋を渡ることは二度とないだろうという覚悟である。つまり、明日はここまで戻ってくることはないだろう、なぜなら、これから戦闘で死ぬか、のたれ死ぬかのどちらかだからだ。そして、生きているということは繰り返すことであると忽然と悟るのである。また同じ橋を渡れるという約束。明日も同じことが続くという安心、それが生きているということである。もう繰り返すことはないということは、それは死を意味するのである。

一期一会というのは茶道にまつわる言葉として使われることが多いが、これは、今あなたとこうして会っているが、これが最後であるかもしれない。もう二度と会うことはないかもしれない。だから今このお茶に心をこめてもてなすのである。もう会うことはないというのは、死ぬまで会うことはないという意味なので、永遠の別れを意味している。一期一会、それは死のことなのである。

わたしは20年以上養護学校(特別支援学校)に勤めてきたが、生徒のなかにはたくさんのダウン症の子供たちがいて、いつも明るい彼らの表情に元気づけられていた。ダウン症の人は人生で獲得できる言葉(単語)の数が限られていると言われていて、もちろん人によって差はあるが、数百ではないかと言われている。

たとえば、彼らは「明日」という言葉と「昨日」という言葉が使えるのだが、「明後日」、「一昨日」あるいは「来週」、「来年」、「先週」、「去年」となるとおぼつかないという場合が多い。「来年」とか「先週」という概念そのものがないのかというと、そうではない。ちゃんと「来週」とか「去年」などのイメージはある。それでは話をするときに、過去の話や将来のことについて語るのは大変なことではないのか、と心配になるかも知れない。

心配ご無用。彼らは「明日」と「昨日」だけを使ってちゃんとコミュニケーションできるのである。たとえば「来週」ということを伝えようとするときには、人差し指を立てて、ちょっと向こうね、というふうに空中を指して「明日!」と言うのである。この「明日」は来週を意味する。もっと先のほうを指差して「明日」というと来年になる。そして、自分の将来というようなはるか先の未来の場合は、さらに遠くを指差しながら「ずっと明日!」という伝え方をするわけなのである。これって、気持ちがこもっている分、説得力がある。

生とは連続のことである。繰り返し同じことが起こるということである。そして同じ繰り返しの先に「明日」(未来)が待っているのである。

美術作品の中にも「繰り返し」を探すことが出来る。

アンディー・ウォーホルの場合は、キャンベルスープやコカコーラの壜が延々と並んでいたり、マリリン・モンローや電気椅子、あるいは事故現場の写真がこれでもかというほど繰り返される。これは資本主義の「生産」という恐ろしく無味乾燥な暴力性を暴き出していたり、イメージが繰り返されることで、日常の風景や事物が増幅されながらわれわれを脅迫するという現代を摘発していたりするのだが、繰り返されることの、暗部へのベクトルを示すという結果を招いている。

ブリジット・ライリーの「ストライプ」作品では縞模様が繰り返されているが、彼女の作品は暗い感じではなく、どちらかというと楽しい作品ということができるのではないだろうか。

山田正亮の「縞々」作品は無機的でありながら思わせぶりなところがあり、物語的な空間を作ろうとしている点で絵画性が強いと言えるかも知れない。

厳密に言うと、ライリーのストライプは縞模様であるが、山田のストライプは縞模様ではない。「縞」ではあるが「縞模様」ではない。ついでに言うと草間弥生の水玉も「水玉」ではあるが、「水玉模様」とは言えない。模様を英語で言うと「パターン」である。パターンとはなにかというと、それは「繰り返し」のことなのである。従って、ある一定の色と形の塊があり、それが延々と繰り返すときに、つまりパターン化されたときに、それを「模様」と言うのである。模様=パターン=繰り返し、である。この繰り返しは厳密でなければならない。厳密に繰り返さないと流れは途切れてしまい、時間的にも空間的にも終わりを迎えてしまうからである。

繰り返しで思い出されるのは、コンスタンティン・ブランクーシの「無限柱」ではないだろうか。この有名な作品は、四角柱の真ん中が膨らんだ形がいくつもいくつも繰り返し積み上げられて、どこまでも天に伸びていく壮大なものである。ブランクーシの繰り返しは、ウォーホルや山田のそれに比べると、力強い意志が感じられる分、明るく、未来を志向しているように見える。

「繰り返し」がやるせない倦怠感を醸し出してしまうか、逆に明るい未来を目指すように感じられるかは、作品の性質にもよるが、見る側の気持ちの持ちようといったものも関係してくると思うのだが、いかがなものであろうか。繰り返しが永遠に続くということは、数学の世界ではあるかもしれないが、人間は永遠に生きるということはない。ないことを知っているので、永遠というのは憧れであって、実際には存在しない、いずれ死という断絶があることを理解している。

しかしながら、それでもわたしたちは永遠を求めるし、いつまでも「明日」が繰り返しやってくることを願ってしまうのである。

わたしたちの「ずっと明日」はどのへんにあるのだろうか。

よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery代表 2017年7月

03-6228-6195