Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

コンセプト論

ギャラリーを始めてから午前中に余裕ができて、テレビでワイドショーなどを見ている時間が増えてしまった。中でも好きな番組は、高田純次の「じゅん散歩」である。いろいろな街をただぶらぶら歩くだけなのだが、出会った店とか人とかを温かく見つめる視線が好きである。

ある回で、浅草のお店に入る場面が出てきた。「Book and Bed」という名前の店で、店員の説明では、「泊まれる本屋というコンセプトで開きました」ということだった。

え?コンセプト?いや、それはコンセプトとは言わないでしょう、とびっくりしてしまったのだが、気がつくと、こういう「コンセプト」の誤用が巷に溢れ出してきているのに気がつくのである。

「北欧料理と雰囲気を楽しむというのがお店のコンセプトです」

「デザインのコンセプトは蝶なんです」

「この車のコンセプトは何ですか?」

という具合である。

困ったことに美大生も

「私の作品のコンセプトは…」

などと使ったりすることが増えてきたような気がする。学生だけならまだ許せるが、大学の先生までが、自分の作品のコンセプトを説明してごらん、などと学生に言ったりしているので、恥ずかしい限りである。

お店にコンセプトというものはない。「このデザインのコンセプト」という言い方は間違っている。モノにコンセプトはないのである。もちろん作品にもコンセプトなどというものは存在しない。どういうことなのか。コンセプトがないのなら、何があるのか。なぜ間違っているのか、そこを説明するのがこの文章の目的である。

コンセプトというのは英語だが、日本語では概念という。そもそも概念とはなにか、そのへんから話を進めなくてはならないだろう。 

永井荷風の 『つゆのあとさき』 という小説のなかにこんな叙述がある。

「清岡は三十六歳のその日まで、夢にも見なかった事実を目撃し、これまで考えていた女性観の全然誤っていた事を知って、嫉妬の怒りを発する力もなく、惟わけもなく鬱ぎ込んでしまった。」

ここに出てくる女性観の「観」ということばは、概念という語に置き換えても差し支えないだろう。「女性という概念」でもいいのだ。

スティーヴン・W・ホーキングの 『ホーキング、宇宙を語る』 の冒頭は、こんな面白いエピソードで始まる。

「有名な科学者(バートランド・ラッセルだという人もいる)があるとき、天文学について公開講演を行なった。彼は、地球がどのように太陽を回っているのか、そしてその太陽が星の巨大な集団であるわが銀河の中心をどのように回っているのかを説明した。講演が終わると、一番うしろの席に座っていた小柄な老婦人が立ち上がってこう言った。

「あなたのおっしゃったことは、みんな馬鹿げていますわ。本当は、世界は平たい板みたいなもので、大きな亀の背中に乗っているんですもの」

科学者は見くだすような薄笑いを浮かべて、おもむろにたずね返した。

「では、その亀は何の上に乗っているんでしょうか?」

老婦人は平然と答えた。

「まあ、お若いのにお頭(ツム)のおよろしいこと。でも、よろしくって、下の方はどこまでいっても、ずっと亀が重なっていますの!」

無限に積み重なった亀の塔という宇宙像をたいていの人は、ひどく滑稽に感じるだろう。」

ここに出てくる宇宙像の「像」ということばも概念ということばと同質である。「宇宙の像」は「宇宙の概念」であるということが出来る。科学者と老婦人、この二人の宇宙の概念は違っているのである。

この本は原題は 『A BRIEF HISTORY OF TIME』 というのだが、日本語版では『ホーキング、宇宙を語る』というわかりやすいタイトルになっている。この 『ホーキング、宇宙を語る』 という文を使って概念を説明してみたいと思う。 

このタイトルは、「ホーキング」、「宇宙」、「語る」という三つのことばから成っている。ホーキングという「人間」が、宇宙という「対象物」について、考えたことや構築したことを述べているのである。宇宙とはどういうものであるのかというホーキングが彼の頭のなかに思い浮かべたこと、じつはそれが概念というものなのである。語るというのは概念を語るという意味であり、概念はことばによって伝えられることを暗示している。

この図式のなかの、どこに概念=コンセプトというものがあるのかというと、宇宙という対象物に対してホーキングという人間が頭の中に思い描いた、宇宙とはこういうものであるというイメージ、それが概念なのである。概念は人間の側にあるのであって宇宙のどこかにあるわけではない。概念は人間の頭の中にあるのである。

別のページからも引用する。

「空間と時間という観念をもたずに宇宙のできごとについてかたることができない…」

この「観念」ということばも概念と同じである。

 

「空間と時間に対するこの新しい見方は、その後何十年かの間に、われわれの宇宙観を根本的に変えてしまった。」

ここで使われている「見方」と、宇宙観の「観」ということばも同様にコンセプトということを表すのである。

コンセプト=概念ということばが、どうして間違って使われてしまうことになってしまったのだろうか。

これはごくごく最近の現象であると思われる。頻繁に使われ出した「コンセプト」とはいったいどういう意味で使われているのだろうか。

「お店のコンセプト」などという使い方をする場合、これは、「テーマ」ということばの代わりとして使っているのではないだろうか。これは「趣向」とか「テイスト」などと置き換えてもいいかもしれない。

「新車のコンセプト」などという場合はどうだろうか。これは「機能」ということを言いたいのではないだろうか。「構造」でも「特徴」でもいいかもしれないし、単純に「売り」と言い換えても問題はないだろう。

美術作品はどうだろうか。「わたしの作品のコンセプトは…」などという文章はよく目にするが、あれは、作品の「テーマ」ということであり、決してコンセプトではないのだ。「メッセージ」とか「意図」、「主題」というのが正しい。

コンセプトということばを、どうしてこんなふうに間違った(ずれた)使い方をするようになってしまったのか、不思議なのだが、「コンセプト」という語の響きがちょっと「かっこいい」からなのか、新しい単語を覚えると、むやみやたらと使いたくなる幼児性からなのか、いずれにしても、これはここ10年くらいの現象ではないだろうかと思われる。わたしが学生だった40年くらい前は、コンセプトという言葉を今のような使い方はしていなかったはずである。

コンセプトという英語の日本語訳は「概念」という言葉なのだが、そもそも概念ということばの意味が分かっているのだろうか、という疑問が湧く。「コンセプト」の替わりに「概念」ということばを使えば「なんか変だな」というふうに感じるはずなのであるが、コンセプトが概念であるということも知らない人がいるので、なんともしようがないのである。「うちのレストランの概念はですね…」と言えばその奇妙さにすぐ気づくはずなのだが。

本屋さんに行くと、新書コーナーには似たようなタイトルの本が幾冊も並んでいるが、たとえば「○○とは何か?」というのもその一つである。「○○とは何か?」というのは、じつは概念を問うているのである。「人間とは何か?」とは「人間の概念」についての本である、と言うことができる。この「○○とは何か?」の「○○」にはどんなことばが入るのかというと、「人間」、「動物」、「宇宙」、「真理」、「美」、「悪」などの、割とスケールの大きいことばや、抽象的なことばが入ってくる。「○○」に「私の店」とか「私の作品」とかのことばは入ってこないはずなのである。

しつこいようだが、『ホーキング、宇宙を語る』 から、概念(観念・像)ということばを拾ってみる。

「…言いかえると、相対性理論は絶対時間の概念にとどめを刺したのだ。」

「現代の宇宙像は、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルがわれわれの銀河が唯一の銀河でないことを証明した、1924年にまでしかさかのぼれない。」

「…宇宙飛行士にとってみれば、ブラックホールの内部で引きちぎられるとともに、その個人的な時間概念も終わりを告げるのはほぼ確実だからだ!」

『クレーの日記』 には

「概念というものは相対的なものだ。」

とある。概念というものが、人間の認識形態であり、それは人によって違っているし、変化もするということをよく理解した言葉である。

ショーペンハウアーは 『幸福について』 のなかで

「努力の終局目標とすべきものは想像力の描き出す映像でなく、明敏な思考を経た概念である。」

として、概念が論理的なことばによる叙述の形式をとることを示唆している。

さて、では、概念(コンセプト)とはいかなるものであるのか、概念とはどこにあるのかをさらに説明してみたい。

絵画作品を例にとることにする。

A君がキャンバスに風景画を描いている。完成したので、友人のB君にそれを見せる。A君は「僕のこの作品のコンセプトはね、自然の中の抽象性なんだよ。どんな風景も抽象性を持っているし、それを探し出して僕なりに表しているわけだよ」

と説明するわけだが、A君の言うコンセプトというのは、テーマとメッセージのことなのである。

友人Bは

「そうなんだ。でも僕にはどこが抽象なのかわからないなあ。ただ色がきれいだよね。これは自然の中の色彩の美しさをそのまま写し取ったように見える」

B君の作品に対するこの「感想」をこそ、コンセプトというのであって、A君は作者本人なので、コンセプトの持ちようがないのである。作品そのものにコンセプトがないことは言うまでもない。

「作品」→(見る)→B君→(考える・感じる)→「コンセプト」

という図式になるだろうか。

でもコンセプトということばが使いたいよなあ…と考える人もいるかもしれない。どんなふうに使ったらよいのだろうか。たとえば、こんなふうに言えばちょっとかっこいいかも。

「最近は、電話ではなくって、SNSとかでいろんな情報を伝えたり、交換したりするよね。直接話をして得られる情報とはどこか違っていて、危うい感じがするんだよね。なんかコミュニケーションの概念が全く変わってしまったような気がするんだけどどうかな?」

あるいは、新車を発表する会社は、「この車のコンセプトは…」とは言わないで、「この車は、車というコンセプトを完全に変えてしまった」と言うのがいいだろう。

おさらいをしておく。コンセプトというのは、「作る側」ではなく、あくまでも「観る側」、「認識する側」にあるのである。ある対象を把握して、こういうものであると認識すること(そして言葉にすること)、その認識の仕方を概念(コンセプト)と言うわけである。ごく簡単にいえば、イメージといってもよいだろう。イメージの持ち方は、人によって万別である。

ことばというものは、「生き物」であるし、時代とともに変化していくし、誤用がそのまま「正しい」表現になっていく例もたくさんあるわけで、コンセプトというのも、百歩譲って、まあ、テーマ、趣味、メッセージ、スタンス、特徴、構造、方針などというものを合わせた便利なことばとして通用させてしまってもいいのではないかとも思われる。コンセプトの誤用は日本に限ったことではないし(海外でも同じように間違って使われていることが多々ある)、間違っているよと指摘されても、今さら直しようがない人もいるかもしれない。

しかし、コンセプトということばに限っては、どうしても看過できない重要な問題が潜んでいるのだ。

作り手が、自分の作品や、製品や構造物、組織などに関して、コンセプトということばを使うというのは、じつは、それを観たり、受け取ったり、使ったりする人たちの、それぞれの感じ方や、受け取り方、思考などの幅を狭めてしまう、あるいは方向性を固定させてしまう危険性がある、とわたしは危惧するわけである。極端に言えば、コンセプトはこれこれこういうことですよと説明することで、それ以外の感じ方をしてもらっては困る、ということを言ってしまっているのだ。コンセプトを持つのは作者であり、あなたは、ただそれを受け入れればいいのですよ、と言っていることにはならないだろうか。

未来のいつの日か、人工知能が、人間に優しくささやくかもしれない。

「人間さん、なにも考えなくていいんですよ。私が代わりに考えてあげますから。」

                    よしおか まさみ/美術家・Steps Gallery 代表 2018年8月

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