Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

機械になりたい

◆風呂敷を首にぎゅっと結びつけて背中で拡げるとマントになる。これで変身完了である。スーパーマンになったわけではない。なぜなら手には刀を持っているからである。忍者になったつもりだったのだろうか。刀といっても木刀やおもちゃの刀ではない。野原で拾ってきた木の枝や、家で使っている孫の手などで代用する。小学校低学年のころのわたしにとっては、これだけの道具で充分だったのだ。わたしはすっかりスーパーヒーローになることができた。マントという洋風な出で立ちに時代劇の「刀」の取り合わせはちぐはぐであるが、そんなことには頓着しない。そのまま野原に駆け出して行き、群生しているセイタカアワダチソウを斬り倒して満足を覚えていた。

そのころ、1960年代はテレビで小学生が憧れるようなヒーローが次々に現われて、わたしの変身願望を刺激し続けた。「サスケ」、「伊賀の影丸」、「仮面の忍者 赤影」などの忍者ものをはじめとして、「ターザン」、「スーパーマン」などの洋もの、それから大好きだった「8 エイトマン」、エイトマンがエネルギーチャージをするためにタバコの形をしたスティックを取り出して吸うと、エネルギーが満タンになる場面。ものすごく速く走ることが出来て、新幹線も追い抜いてしまう。8が英語でエイトと発音するということを知らなかったわたしは、「ハチエイトマン」と読んでいた。

時代が下がると新しいヒーローが出現する。「ゴレンジャー」に代表されるスーパーヒーロー5人組である。男性四人に女性一人、あるいは男性三人に女性二人というのが基本の形である。正義感に溢れた彼らは、普段は普通の何処にでもいる若者なのであるが、敵が現われて、いざ出陣となると、パワースーツに身を包み、フルフェイスのヘルメットをかぶり、変身する。

正義の味方がヘルメット姿でその表情が見えないというのはどうなんだろう。言葉と身振り手振りで感情を読むのには限界があるだろう。これに対して、「悪者」である怪獣や軍団のドンは、気味の悪い見かけに反して、どこか愛嬌があり、「人間味」が見られるのだった。

パワースーツとヘルメットで変身したヒーローは、中身は人間のままなのだろうか。それともどこかがロボット化しているのだろうか。そのへんは疑問が残ったままである。

◆2020年、新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、パンデミックになった。

感染防止のために、みんなマスクを着けるようになった。日本人は昔からマスク好きというか、着けることに躊躇いはない。アジアの人たちはみんなそうなのかもしれないが、これに対して、欧米の人たちはマスクを着けるのを嫌がる。

なぜなのか。

この理由をまことしやかに説明している記事やテレビ番組の中のコメントで聞かれたのがこれである。

日本人(たぶん他のアジアの国でも)は、相手の表情を読むときにはその人の眼を見る。だから、口をマスクで覆っていても眼でコミュニケーションができるのである。ところが、欧米の人たちは相手の表情は、それを口元で読むのである。口が隠されていると表情を読むことが出来ない。だから、マスクを極端に避けようとするのである。眼で表情を読まないので、サングラスをかけることはなんでもないが、日本人の方は、サングラスをかけている人を見ると避けたがる。

スーパーヒーローの場合は、眼も口も、どちらも隠されている。

 ◆久しぶりに 『モドゥコン・ブック』 を開いてみた。ずいぶん前にヴァニラ画廊で買ったものだが、いつ見ても衝撃的である。シャノン・ララット 『モドゥコン・ブック 日本語版』 (フユーチャー・ワークス 2003年)。身体改造に関する本だが、これから何ヶ所か引用するので、どんな内容なのか想像してほしい。

扉をめくると、まずこんなことが書いてあるのが目に入る。

「マーカーペンを与えられた子供が最初にやりたくなったことは、紙の上でなく、自分の肌の上に絵を描くことだった」

そして次のページには大きく「警告」という文字があり、その下にこういう文章がある。

「この本は、非常に危険な施術についての記録を含んでいる。これらを真似ることは外観を醜くしたり、死の危険さえも招き得る。身体改造を実践する人々は、自分たちが何をしているのかをあまり語らないが、彼らは強い欲求にかられて自分自身でよく調べ、その「冒険」を始める前に専門家の助けを探し求めるような人々である。如何なる事情においても、この本はハウ・トゥーの手引書として扱われるべきではない。我々は、それらの施術を安全に行うための充分な情報を提供していないし、「この本で見たからといって、決して試みることのないように」と強調しておきたい。」

「序章」のなかではこんなことが言われている。

「この本は実在する人々を扱っている。この本に登場している人々は皆、見世物小屋のパフォーマー、奇形、あるいはみんなに見せるために身体改造を行ったわけではない。彼らは、ちょっと変わった趣味を持っているかも知れないが、あなたたちと同様にまっとうで健全である。もし、あなたがこの本で扱われているものに対して、同じレベルの人間として、同等の敬意を持って扱えないならば、今すぐ、この本を閉じるべきである。」

「私は動物の一種ではない。だから、私は自分の意志で、自分の身体がどのようなものになるかを決定するのだ!!」

「なぜ、ほとんど多くの人々が、身体を改造しないのだろうか?」

「目次」からいくつかを説明抜きで羅列する。

「タン・スプリッティング(スプリット・タン) 舌の切り裂きの誕生秘話と方法」

「手術室 埋め込み(インプラント)は現在でも難易度の高い手術の1つである」

「セイリーン(生理食塩水) 生理食塩水の注入で、一時的だが身体の一部を膨張させられる」

「男性器を真っ二つに割ったレイ、陰嚢で吊り下がったロイ」

「胸部でのサスペンション 胸部にフックを貫通され、フレアが吊り下げられた」

「カッティング(切って図柄を刻む)とブランディング(焼印)の総称がスカリフィケーションである」

「号泣の2度切りで右手切断を達成した幸福者エド」

「計画的自動車事故で片足切断を達成したビル」

「去勢者(ユーニック)と去勢(キャストレーション):初対面の男たちに睾丸を摘出され食べられてしまったブルース」

まだまだあるが、ここまでにしておこう。

モドゥコンというのは、モディフィケーション・コンベンションの略である。身体改造世界大会。

 ◆ステラークというオーストラリア人の作家がいて、真木画廊などで「作品」を発表していた。1970年代だったから、今から50年近く前のことである。当時の彼の作品は「サスペンション」だった。身体に幾つものフックを突き刺して、画廊の天井から吊り下がるというものだ。真木画廊の主人だった山岸信郎氏にサスペンションを行うときの様子を聞いたことがある。天井から吊り下がる前は、精神統一を長い時間かけてやったそうだ。フックを突き刺すのだから、真剣にやらないと失敗する。失敗というのは何かというと、フックが体重を支えきれなくなって、肉が切れて肉片が飛び散るのだそうである。で、サスペンションが終わったら、そのまま画廊の床に静かに横たわり、そのまま一夜を明かすのだそうだ。すぐに動くと傷が治らない。

今考えると、よくやったものだなあと驚くのだが、おそらく、どういう風に見たらいいのか誰も分からなかっただろうなと思う。ただ呆気にとられていたのだろう。

ステラークはその後も、人工の義手を作り、パフォーマンスを行ったりしていた。

最近、あるテレビに、ボディ・モディフィケーションを取り上げたものがあって、その中にステラークが映っていた。あいかわらず過激なことをやっていて、耳を腕に移植したりして、まあ、すげえ!と言わざるを得ないのだった。

◆1964年の東京オリンピックのときは、現在のように「オリンピック・パラリンピック」とは言わなかったのではなかったか。近年オリンピックは「オリ・パラ」などと呼ばれて、パラリンピックがクローズアップされるようになってきた。障碍者に対する理解が深まってきたことはそれはそれでよいことだが、パラリンピックが注目され出したのは、一般の観客が、「健常者」の競技とは違った魅力をパラ競技に見出したからではないかと思う。たとえば、車椅子マラソンは、名称はマラソンであるのだが、42.195kmを走るマラソンとは全く違ったものである。車椅子が移動のための補助具ではなく、独自の進化をとげた道具になり、魅力的な競技になっている。ブラインド・サッカーを「見る」人たちは、「見えない」なかでボールを操る選手の動きに、普通のサッカーにはない面白さを感じているだろう。

パラリンピックの人気は、これからますます高まっていくのではないだろうか。

障碍をもつ人たちは、病気が原因でそうなった人もいるし、生まれつきの人もいるだろう。事故が原因で障碍をもつにいたった人も多いだろう。パラリンピックが開催されるということは、それだけ障碍者が多いということでもある。

医学とその技術が進むことで、病気によって障碍者になる人たちは減って行くかもしれない。AIを駆使することによって、交通事故も減っていくことが予想される。

障碍者スポーツの人気が高まり、注目されるようになると、パラリンピックでは、各国がメダルを争って、より強い選手を育成することに力を入れるだろう。

近い未来には、スポーツ庁や政府はこんなことを口走らないとも限らない。

「障碍者が足りない…」

◆ロジャー・ペンローズ・インタヴュー (『ペンローズの〈量子脳〉理論』 ちくま学芸文庫 2006年)

ペンローズ ……計算システムには「意味」という次元は存在しないのです。計算システムには、従うべき規則があるだけ。数学では、記号の意味を理解して、形式的な規則を超えて、当てはまる新たな規則を探すことができます。その際、意味の理解が不可欠なのです。

要するに、完全に計算的なシステムはこのような意味の理解はできない、ということです。

クラーク したがって、ロボットは本当に人間のような意識を持つことはない。

ペンローズ それが結論です。

◆石田徹也の「燃料補給のような食事」(1996)という絵画は、カウンターのあるお店で食事をしている様子を描いた作品だが、三人のサラリーマン風のスーツ姿の男が背を向けて座っている。カウンターの向こう側にも三人の店員がいて、ガソリンスタンドで給油をするピストルのような形をしたハンドルを持っている。その先端を客の口に中に差し入れている。

わたしが高校を卒業したあと、山形から東京に出てきたが、牛丼の吉野家に初めて入ったときに、石田徹也と同じような感想を持ったことを思い出す。

「牛丼屋で食事をするとき、自分がまるでガソリンスタンドに入っていく車のように感じる。その理由は、食事というより燃料補給に近いからだ。」 (『石田徹也・ノート』 求龍堂 2013年)

「あんまり腹がへるので、或る日節を屈して、丸ビルで蕎麦を食って見た。あつらへたお膳は目の前に来たけれども、辺り一面が大変な混雑で、私のすぐ右にも左にも、鼻をつく程近い前にも知らない人がいっぱいゐて、みんな大騒ぎをして何か食ってゐる。腹のへった鶏群に餌を投げてやった有様で、こつち迄いらいらして、自分の蕎麦を食ふ気がしなくなったから、半分でやめて、外へ出てほっとした。」 (内田百閒 『御馳走帖』)

石田徹也の作品の中の人物は、いろいろなものと合体する。

初期作品では、だんご虫の中で寛いでいたり、カフカの 『変身』 ばりに、ゴキブリやクモになっていたりする。その後の「合体」作品では「機械類」に取り込まれていく様子を描いている。印象的なのは遊園地の飛行機と一体化してしまった「飛べなくなった人」(1996)、フォークリフトになってしまった作品では、両腕が「フォーク」状に変形している(「ぐち」1997)。

作品の中の人物の表情に引きつけられる。現状に痛めつけられて、なにもかも諦めてしまったような目はどこか遠くを見ている。諦めは悟りに似ているかもしれない。

石田徹也はどこにも自分の居場所が見つからず、機械の中に救いを求めたのではないだろうか。

2005年、踏切事故により死去。石田は電車と合体することに失敗した。

「かつては難しくなかったことが、いまではほとんど常に問題になりつつある。すなわち、空(ア)いた場所を見つけるということだ。」(オルテガ・イ・ガセット 『大衆の反逆』)

◆AIが人間に近づいているのではない。

人間がAIに近づいているのだ。

◆生物学者ユクスキュルによるマダニの生態記述。

木の枝につかまって、マダニはその下を通る哺乳類を待つ。動物が通るときに落ちて行き、血を吸う。動物の体温やCO2 を感知するのである。もし、うまく動物の上に落下できなかった場合は、再び木を上っていくことになるが、その距離は気が遠くなるほどである。

もし動物が通りかからなかったらどうなるのか。

マダニはただ待つのである。何日でも待つ。何週間、何ヶ月でも待っている。1年、2年と待つ固体も居る。今まで観察されたマダニの待っていた最長時間は18年であるという。それほど長い時間飲まず食わずでいることができるのだろうか。待っている間、マダニは仮死状態にあるのだそうである。マダニには目が無いので、視覚がない。耳もないから音を聞くことができない。光のない空間で、音のない状態で、ただ待っている状態を想像する。自分は生きているのか、死んでいるのかさえわからないまま、時間が過ぎていく。仮死状態における時間は、われわれが感じているそれとは違うだろうが、それにしても待つというその時間は、何を意味しているのだろうか。マダニは夢を見ているだろうか。

「夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまで死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。」(ベンヤミン『パサージュ論』)

◆電子顕微鏡を使うと、原子を見ることが出来る。走査型トンネル顕微鏡というそうだが、非常に込み入った手順を経ることにはなるが、原子の一粒を検知することで「見る」ことが可能になるのだ。原子を見つめる人間の眼。

眼は原子でできている。

原子が原子を見ている。

◆宇宙の天体で気になっているのは、中性子星だ。なにが気になるかというと、その重さと自転速度である。中性子だけでできているので、ものすごく重い。角砂糖1個の大きさで5億トンあるというのだ。ちょっと想像が難しい。中性子星は直径が10~20kmで固体である。星としては異様に小さいが、それだけに不気味である。自転している。地球の自転速度は1回転で24時間であるが、中性子星はとんでもない速さで回っている。大きさが違うので、地球とは比べられないが、それでも充分に速い。XTE J1739-285という星は、1秒間に1122回転する。どんだけ速いんだ、という速度であるが、これ以上速くなると、星自体が壊れてしまう限界の速さだそうだ。

中性子星を実際に見たら、どんなだろうと想像する。直径10kmの金属よりもはるかに重い球体が、音もなく回転しているのだ。だれにも知られずに、何万年も回り続ける。

わたしは、中性子星を想像すると、気が晴れてくる。

◆2021年12月×日

ああ、あの子はわたしにぶつかってくるだろうなと思いながら、銀座4丁目交差点の横断歩道を渡り始めた。幼稚園生とおぼしき男の子はにこにこ笑みを浮かべながら、横断歩道の反対側からこちらに向かって走りながらわたしにぶつかってきた。いや、抱きついてきたのかもしれない。男の子はわたしの腹に、なにかペンの様なものを押し当てたと思った瞬間煙草の火のような熱さがへその辺りから広がって激しい痛みに変わった。わたしは気を失ったようである。歩道に倒れこみながら、わたしは男の子がこう言ったのを確かに聞いたのだ。

「これで君はロボットになれるよ」

気がつくと、わたしは三越デパート入り口のライオン像の前に立っていた。気を失っていたのは幻影だったのだろうか。お腹に火傷の痕がないかシャツを捲ってみたが、何も見当たらなかった。

不思議と気分はよかったが、わたしの中で何かがぐるっと回転してしまったことに気づいてもいた。

気分がよいと言ったが、じつはそうではなくて、気分というものが何なのか分からなくなっていたのだ。「気分」がなくなるということは、感情というものの消失も意味していたようである。

わたしは落ち着いていた。落ち着いているというのは、怒りや悲しみが消える状態である。そのほかの好き嫌い、善し悪し、楽しい、悔しいという感情が消え去ることである。要するにわたしの内面がすべて変わってしまったことにほかならないのだが、それについて詳しい説明をする必要はないだろう。なぜなら、あなたも近いうちにロボットになるのだから。

2022年 1月

(よしおかまさみ/ロボット)

03-6228-6195