Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

ギャラリーの言い分

Steps Galleryを2011年にオープンしてから10年経ったわけだが、その間、何回かレクチャーを行って、「プロになる」、「展示のコツ」などのタイトルで話やワークショップを開催した。これをまとめてテキストにしたいと考えていたが、内容が多岐にわたるうえ、直接解説しないとわかりにくいこともあって、文章にすることをためらってきた。しかし、文章で残すほうが、より多くの人に(特にアーティストに)伝えられるのではないかと考え、なんとかまとめようとしているわけなのである。

一言でいうと、作品を発表するってどういうことなの?というのがテーマなのであるが、様々な項目について解説するふうを装って、日ごろ考えていることを遠慮なく言ってしまおうという魂胆なのである。

美術作家が集まると作家同士の噂話に花が咲くが、ギャラリーの話も出る。あのギャラリーはどうのこうのと言うのだが、同じように、ギャラリーのオーナー同士も噂話が好きで、作家の噂話と悪口を言い合うのである。これがけっこう楽しい。「だよね~」と意見が一致する。別に悪口を書こうと思っているわけではないのだが、少々きついことも書くかもしれない。そのときは、まあまあ、と言ってご容赦願いたい。

なるべく簡略にして要点だけ書くことにしよう。まずは「プロになる」からかいつまんで述べさせてもらおう。

◆プロとはなにか

「プロの作家ってなに?」という問いを投げかけると、たいていの人はしばらく考えた後で「作品を売って生活している人」、「作品が売れている人」と、作品の売れ具合を考えるようだが、そういう視点からすると、ほとんどの作家はプロではないということになる。「作品だけで食べてる人」などという作家は100人に1人もいないんじゃないかな。作品はなかなか売れないのである。なぜか。

ハンス・アビングは著書『なぜアーティストは貧乏なのか』の中で、こう結論づける。需要と供給が一致してないことが原因であると。つまり、アーティストが多過ぎるのである。作品を買う側の購買力を作品の数が上まわっているのだ。売れないのに作り続ける。ますます貧乏になるというわけである。

これが、例えばスポーツ業界で見てみると、需要と供給がほぼ同量なのでうまくいっているのだ。スポーツ選手は若い時から成績、記録という客観的な基準で測られて、才能がない場合は自然に消えていくことになる。

美術作家は、客観的な評価基準がないので、作品は売れなくても、自己満足というエンジンを搭載して突っ走るのである。誰も、もうやめたら?とは言ってくれない。

さて、作品が売れない作家はプロではないという定義に対しては、こういう質問をぶつけてみよう。「絵が売れなかったゴッホはプロではないのか?」。

そうか、ゴッホか。ゴッホはアマチュアではないのか?と訊くと、みなさん、いやいや、ゴッホはプロだと思う、と言う。そうすると、絵が売れる売れないという基準では、プロか素人かを判断できないということになる。

ゴッホはなぜプロなのか。それは一つには売れていなくても作品は素晴らしいということがあり、それは当然のことなのであるが、もう一つ大切なのは、美術に対する姿勢ではないだろうかと思う。真摯に制作と向き合い、人生を賭けているかという覚悟のことなのだ。

サマセット・モームは『月と六ペンス』の中で、ゴーギャンをモデルにした主人公にこんなふうに言わせている。「水」というのは美術の世界のことである。

「僕は、もう描かないじゃいられないのだ」と、彼は、もう一度繰返した。

「じゃ、かりにですね、あなたが終始三流画家の域を出なかったとして、それでもなおすべてを擲っただけの甲斐はあった、とお思いになるでしょうか?これがほかの仕事ならですよ、なにも特に人に傑れなければならないということはない。人並み相当の力さえあれば、結構やっていけますよ。ところが、芸術家の場合は別ですからねえ」

「実に馬鹿だね、君は」と、彼は言った。

「なぜです?当り前のことを言うのが、馬鹿だというなら別ですが」

「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておられるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」

◆ギャラリーとは何か

美術館は作品を見せる場所であり、ギャラリーは作品を売るところである。

これがなかなか分かってもらえない。

美術館は作品は売らないが、入場料を取る。ギャラリーは入場料は取らないが、作品を売るのである。ギャラリーはアートショップなのである。作品を売って生活しているのである。

お客さんのなかには「売ってるんですか?」ととんちんかんなことを言う人もいる。

作家のなかにも、「作品は売れなくてもいいですよ」と馬鹿なことを言う人もいる。自分のことしか考えていないのである。ギャラリーは作品を売って生活しているのである。作品が売れなくてもいいというのは、このギャラリーは潰れてもいい、という意味と同じであることを理解しない。なぜわからないか。想像力がないからである。想像力のない人が美術作家になれるのだろうか。

上述のハンス・アビングは「ギャラリーにはレジスターの機械を置くべきである」と冗談を交えながら強調する。作品が売れたら、どうもありがとうございました、と言って、レジスターをチーン!と鳴らすのである。ここがショップであることをお客さんに印象づけるためである。なるほどねえ、海外でもギャラリーは同じなんだなあと思わせる。ハンス・アビングは、アーティストであるが、大学で経済学を教えてもいる。

蛇足

・ギャラリーに来る人を便宜上、お客さんと呼んでいるが、作品を見に来る人はお客さんではなく、見学者と呼ぶのが正しいだろう。お客さんとは、作品を買う人のことである。

・この作品は売りたくないので「非売品」にしてくださいと言ったりする困った作家がいる。ギャラリーがショップであることを全く理解していない。どこの八百屋さんで「このキャベツは特別の出来だったので非売品です」などと言うのか。売りたくない作品はギャラリーに持ってこなくていい。非売品を展示するのはお客さんに対して失礼である。

・上記の、作品は「売れなくていい」ということを認めたとしよう。作品を売る必要がなくなったとしよう。それでもギャラリーを開くわけで、さて、今日もがんばるかなと言いながらわたしはギャラリーの準備をするのである。いったい何をがんばるのであろうか?やる気出ないじゃんね。

◆なぜ個展をするのか

なにも考えずに、ただ個展をやりたいと思っていた。学生時代にギャラリー回りをしていた時は、個展をやっている作家を見ては、かっこいいなあ…と羨ましかった。いつか俺も個展をやるぞ!と意気込んでいたと思う。とにかく自分の作品を発表したかったのだ。それ以上は考えなかった。

しかし、なぜ個展をやるのかということを改めて考えると、なかなかまとまらない。

ギャラリーにとっては作品を売ることが一番の目的だが、作家にとっては、新作を発表していろんな人に見てもらう、そして高い評価を得たいというのが大事なのだろう。

作品を見てもらうというが、いったい誰に見てもらうのだろうか。友達を呼んで、久しぶりに旧交を温めるのは楽しいものである。会っていなかった親戚のおじさんが来てくれるかもしれない。職場の同僚も顔を見せたりする。大学の先生が来る。どんな作品かな、と美術作家が見に来るだろう。他には、評論家、学芸員、美術ジャーナリスト、いつもギャラリーを回っている美術愛好家。それと、気に入った作品を買ってくれるコレクター。こういう人たちが来て、ああでもないこうでもないと作品を批評してくれる。

いちばん嬉しいのは、自分の好きな作家に褒めてもらうことである。自分がその目を信頼している人に認められることは、ことのほか嬉しいのである。

最近は、SNSなどで「いいね」をもらうと嬉しがる作家がいるが、大切なのは「誰が」いいねと言っているかである。どうでもいい人にいいねと言ってもらってもねえ……「いいね」が増えてもギャラリーは何も嬉しくない。言葉で褒めるのはだれでも気軽にできるのである。「いいね」と送ってくる人が作品を買うことはほとんどないし。

お金を出して買ってくれるということが本当の「いいね」である。

売れると嬉しいのですよ。作家は嬉しいわけだが、じつはそれ以上にギャラリーは嬉しいのだ。ギャラリーが認められたという気持ちになる。

作品を売ることは、ギャラリーの一番の仕事だが、作家は必ずしも売ることが一番でなくてもいい。でも二番ではあってほしいな。そして個展が終わったときに、ああ楽しかった!と言ってもらえたら嬉しいんだなあ。

作家としてのわたし個人のことで言えば、昔はみんなに褒めてほしい、有名になりたい、美術館で発表したい……といろいろ考えていたのだが、現在はというと、そういう野望はまったくなくなった。ただ、作品が売れればいい、できれば完売。売れることは作品を認めてくれたという確かな証拠だからである。「いいね」はどうでもいい。

 

簡略に書くと言いながら、なんかだらだらと長くなってしまった。いいや、このままだらだらと書こう。

オディロン・ルドンは、モノクロで不気味な作品を描いていたが、作品は売れなかった。でも資産があったから生活には困らなかったのだが、ある時から、持ち金がどんどん減るばかりで、生活が苦しくなってきた。絵を売らなければならない。売るにはどうしたらよいか。

色彩を使い、明るい絵を描けばいいのだ、と考えて、カラフルな花の絵だとかを描き出した。作品は売れた。ルドンは「売り絵」を描いたわけではない。色彩を使っても、自分の表現をきちんと追及した。売るために作った作品は、思いがけず新たな領域を開拓させてくれたというわけである。いろいろ試してみることは大切なのである。

◆個展の案内状と略歴

個展を開催するとなると、作品制作のほかに、案内状を作ったり、宛名を書いて発送するとか、いろんな仕事がある。まず案内状をハガキで作るときの注意事項を書いてみたい。

〇案内状(DM)

表と裏:デザイナーとやり取りをするときに、ややこしいのは、裏と表である。一般の人は、住所などを書く宛名面を裏、写真などを印刷する面を表だと思っている人が多いが、逆である。宛名面を表、写真面を裏というのが正しい。デザイナーとの連絡では、裏と表という言葉は使わないで、写真面、宛名面と呼ぶ。間違いがないようにである。

縦と横:宛名面を見ると横位置なのに、写真面の作品が縦位置だったりするDMをときどき見かける。素人のデザインである。縦と横を統一するというのはデザインの基本である。そんなこともわからない人が作ったDMを良しとしているだけで、作家のレベルがわかってしまうというものだ。

英語表記:決まりというものはないのだが、宛名面に日本語、写真面に英語を使うのが一般的である。英語が必要なのは、そのDMがたまたま海外に渡るということも考えてのことである。英語だけ読んでも作家名や会場、会期などがわかるようにしたい。作家名を英語表記する場合であるが、苗字・名前の順で書く。名前を先に書く人がいるが、それはもう古いなあ。2021年の東京オリンピックをテレビで見ていた方は気づいたかも知れないが、日本人選手の名前をコールするときに、苗字・名前の順で呼んでいたはずである。2002年、文部科学省は、こういう通知を教科書会社に出した。英語の教科書に日本人名を書くときは、名前・苗字の順ではなく、苗字・名前の順で表記するように、というものだ。苗字・名前の順番は、日本の文化であり、自国の文化を大切にすることが国際化の基本である、というわけだが、これには賛成である。美術業界では、苗字を先に書こうよということはかなり前から言われてきたことなのであるが、なかなか浸透しなかったのだ。

李禹煥という韓国の作家がいるが、彼が外国で展覧会をするときは、ウーファン・リーとは表記せずに、リー・ウーファンと苗字を先にする。トランプ大統領は、中国の国家主席の名前を呼ぶときは、習近平と言い、キンペイ・シューとは言わなかったし、金正恩のことも、ジョンウン・キムとは呼んでいない。ところが、安倍晋三のことは、シンゾー・アベと言っていた。なぜか。日本をアメリカの属国と見做しているからだ。

Exhibition:展覧会だから、「吉岡まさみ展」のように、「展」ということばを入れるが、数年前からギャラリーの案内状に「展」ということばを入れることをやめた。ギャラリーは展覧会をやる場所なのだから、わざわざ「展」と断わる必要はないのだ。ギャラリーでないところ、たとえば公民館とか、文化センターとか、喫茶店とか、展覧会以外でも使われる施設で展示をするときは「展」をつけたほうがいいかもしれない。

海外ではどうかというと、やはり「Exhibition」とは書いていない。個展のDMなどは作家の名前が書いてあるだけである。

美術館のポスターなどを見ても、最近は「展」をつけていないことが多くなったね。

〇略歴

これも書き方の正式な決まりはないのだが、分りやすく書くのがいいかな。

生年:1956 山形生まれ というふうに書く。この場合山形は「県」なのだが、たとえば米沢生まれだったら、1956 山形県米沢市生まれと書く。生まれたのは米沢だが、生後すぐに仙台に引っ越して、ずっと仙台で育った、と言う場合、仙台と書きたいよね。そういう場合は、「仙台市出身」と書けばいいだろう。女性で、何年生まれ、と書きたくないという作家がいる。でもね、いずれ分かっちゃうよ。

展覧会会場:会場の所在地を書くときだが、たとえば

2021 Art Cocktail 2021(Steps Gallery/東京)                  

と書くが、/東京・銀座とは書かない。銀座はいらない。でないと、有楽町とか、亀戸とか際限がなくなる。略歴を見るお客さんは、そこまで要求しない。海外の人にとっても、Tokyoで十分であろう。

さて、東京の場合はそれでいいが、たとえば横浜ならどうか。これは、

2017 ATELIER・K(横浜)

と書く。神奈川県はいらない。横浜は県庁所在地だからだ。県庁所在地の場合、市もいらない。県庁所在地以外のところなら、「笠間市・茨城県」というふうに書く。

海外の場合はどうか。開催地が首都なら、国名はいらない。

2011 「BUMP INTO」(四面空間画廊/北京)

となる。首都でない場合は、works gallery/サンノゼ・アメリカとなる。

ニューヨークはどうなるか。ニューヨークは首都ではないけれど、国名はいらない。

2010 Caelum Gallery/ニューヨーク

でいい。ニューヨークは誰でも知っている有名な都市だからである。ロサンゼルスとか、バルセロナとかも国名いらないだろうなあ。

〇作品データ

作品のタイトル、素材、サイズ、制作年、価格などのことである。ギャラリーがキャプションを作製するときに必要になる。

絵画作品の場合、作家が作品を完成させたら、必ずサインをしてほしい。作品の裏でもいいから、これが誰の作品でタイトルはこれこれでとわかるようにしておく。作品を作りっぱなしで、サインもしない人がときどきいるが、まあ、それだけでプロでないということがわかる。自分の作品に責任を持とう。サインがあると、作品の上下もわかりやすい。

タイトル:作品にタイトルをつけるのは意外に難しい。考えるとかなり時間がかかって面倒くさい気持ちになる。フランシス・ベーコンは自作にタイトルをつけるのをとても面倒がったので、彼の作品タイトルは、ほとんどギャラリーが考えたそうである。

「無題」とか「Untitled」なんていうタイトルをつけるのが流行った時代もあった。「Work」なんてのもそうだね。言っておくが、今は死語である。

全作品同じタイトルという場合もある。そういう時は、数字やアルファベットをつけて、区別できるようにしておこう。そうしないと、売れた場合、なんて記録すればいいかわからなくなるからである。

素材:素材は詳しく書くと、観客にとってちょっと楽しいかもしれないが、あまり詳しいのも鬱陶しい。紙でいいものを、ケント紙とか、下地に使ったジェッソも書いたりするが、いらないね。ミクストメディアという言葉を使う人もいる。素材があまりにもたくさんあるときにこう書くと便利なのであるが、これもあまりお勧めしない。略し過ぎて、お客さんが知りたい情報が消えてしまうからである。そういう時は、「キャンバスにアクリル・墨・布・その他」と書いて、素材のいくつかを書いておいてあげるとお客さんは嬉しい。

素材欄に「パネル」と書く人もいるが、パネルは素材ではない。形態である。だいたい木でできているだろうが、木とは限らない。だから木のパネルの場合は「木」と書けばいいのである。パネルに紙を貼っている場合は、「紙」だけでいい。

「ペン」とか「ボールペン」と書く人もいるが、ペンも素材ではなく道具である。素材は「インク」と書く。「スプレー」も同様で、これは「塗料」と書いておけばいい。

鉛筆の場合は鉛筆のままでいい。細かいことを言うと、「黒鉛」とかになるのかも知れないが、鉛筆は鉛筆で通用してしまっているのでOKなのだ。

アクリル絵の具を単に「アクリル」と書くことが多いが、これは慣用的に「アクリル」だけでいいこととしている。

版画の場合。木版画の素材は正確には紙にインク、紙に水彩絵の具などになるわけだが、この場合も、慣用的に「木版」、「アクアチント」、「シルクスクリーン」などと、技法名で代用してもかまわない。

サイズ:平面作品の場合は、縦×横で表示する。これは決まりである。立体の場合は縦×横×高さ、あるいは、縦×横×奥行きである。長さの単位はセンチメートルである。アメリカなどではインチを使う場合が多い。長さの単位はセンチかインチである。これも決まりである。中にはミリで書いてしまう作家もいるが、間違い。ミリってどこで覚えてきたんだろうね。センチで表示するとお客さんは分かりやすい。横5メートルの作品を5000mmって書くのはどうなのよ。もっと大きい場合はとんでもないことになるよ。さすがに、何十メートルになったらメートルを使うし、場合によってはkmを使うこともある。以前、高橋睦治が、オーストラリアのピナクルズで発表したランドアートは、縦×横が1×1kmだった。作品は砂丘の上から見た。

50号とか30号とか「号」を使う人がいるが、これも一般の人にはわかりにくい。これは美術関係者の符牒くらいに考えた方がいい。号だけだと縦位置か横位置かもわからなくなる。

制作年:制作年は必ず書いておいてもらいたい。あとあとになって、あれ、これっていつの作品だっけ?と困る場合があるからだ。略して「‘20」などと書かないで、2020と書いてほしい。1920かもしれなくなるんだから。

価格:作品に値段をつけるのは難しい。すごく難しい。だいたいこのくらいじゃない?と見当をつけて決めるのだが、その時代の経済状況が大きく影響する。作家のキャリアや人気なども加味しないといけない。ギャラリーとしては、お手頃な値段の小品を並べたくなるね。

安ければ売れるということでもない。

お手頃サイズでお手頃価格なのに売れないのは、作品に魅力がないのだ。その場合は、一度考え直して作品を変えることだね。

さて、ここまで「プロになる」ことについて、それとそれに付随する項目について述べてきたが、ここから「展示」について書くことにする。これで半分かあ。予想以上に長くなってしまった。飽きちゃったかな。

少し休んで続けて読んでね。

◆テリトリー

作品と作品の間隔のことである。作品にはそれぞれテリトリーがある。テリトリーを相互に侵さないようにするということなのであるが、これを説明するのに便利な言葉が最近出てきた。「ソーシャルディスタンス」というのがそれだ。「作品と作品の間にはソーシャルディスタンスが必要です」と言うと、みなさん、ああそうか、とすんなり理解することがで

きるのである。

テリトリーというのは、その人が他人との距離をこれくらい取ったら過ごしやすく落ち着くという範囲のことであるが、作品にもそれぞれゆったり過ごせる空間が必要なのである。狭い場所にぎゅうぎゅうに展示すると、作品は、狭いよう、苦しいよう、「近い!」と声を上げているはずなのである。その声を聴けるかどうかというのがカギである。

ギャラリーだけでなく、学校の壁とか、街中の掲示板とかに、ポスターなどを貼るときにも、このソーシャルディスタンスを使うとよい。ポスターなどの張り紙も、隣り同士でぴったりくっつけたりしない方が見た目がいい。

作品によっては、そのテリトリーが違っている。「強い」作品はテリトリーが広く、「弱い」作品はテリトリーが狭いものである。たとえば、ピカソの油画を壁に掛けたとしたら、すぐ隣に他の作品を並べられないよね。畏れ多いからではなく、ピカソの作品のパワーが壁面を喰うからである。

学校の生徒の作品を並べるときってあるでしょ?たとえば50枚の生徒の絵を縦5,横10枚並べるとするでしょ?どういうふうに配置すると見栄えがよくなるかというと、真ん中辺りに持ってくる作品と端っこに展示する作品の配置を工夫するのである。

全体の周辺に強い絵を持ってくる。色が鮮やかだったり、激しいタッチだったり、目立つ作品を端の方に置く。弱い絵というのはなんだけど、繊細で軽そうな印象の絵を中心部分にもってくる。そうすると、「強い」絵が、「弱い」絵を周辺から支えて、全体としてバランスがよくなるのである。これは、テリトリーを意識することで生まれる展示テクニックの一つである。

◆グルーピング

学校の生徒作品の展示というと、人数が多い場合は、100枚の絵を壁一面に展示することになると思うのだが、縦横に均等に格子状に配置するのではないだろうか。しかし、高さや作品同士の間隔が同じだと、見る方としては途中で飽きてしまう。

ここで使うのが、グルーピングという方法である。生徒の作品を縦10枚、横10枚に並べているとする。真ん中の縦1列と横1列を全部外してしまう。そうすると、作品の4つの島、グループができることになる。こうすると、観客は一つの島から次の島へ行く途中でちょっとした休憩をとることができる。つまり見やすくなる。

春日武彦の『奇想版 精神医学事典』を読んでいたら、マジカル・ナンバーについて述べられていた。アメリカの認知症学者ジョージ・ミラーが1956年に提唱したもので、人が短期記憶で扱えるカタマリはおよそ7±2であるというものである。いわゆるマジカル・ナンバー7である。しかしその後同じアメリカのネルソン・コーワンによれば(2001年)マジカル・ナンバーは4±1であるという。たとえば、電話番号や郵便番号は3桁ないし4桁で区切られているが、これはカタマリとして覚えるには区切った方がいいということである。

わたしの携帯の番号は090-9005⁻0531であるが、途中の「‐」は何であるのか。いろいろな理由があるのだろうが、こうやって区切った方が覚えやすい。展示でいうところのグルーピングである、覚えやすいし見やすい。11枚の絵画を並べる場合は、3枚・4枚・4枚の3つのグループに分けて、その間を少し空けておくのがいいかもしれない。この空いた空間は「‐」に相当するわけだ。

と、ここまで書いた「テリトリー」と「グルーピング」、この二つを押さえておけば、展示の基本はだいたいできたことになる。展示はセンスだけでやるわけではなくて、基本的な決まりを守っていればなんとかなるのである。

以下に書くことはこれに付随することで気をつけておきたいことである。

◆高さとリズム

絵を壁に掛けるときの高さである。これは国によってちょっと違う。日本と比べると、ヨーロッパなどでは、かなり高い位置に設置することが多い。これはもちろんその国の人たちの身長に合わせているからである。最近では日本人も身長が伸びているからそれほどの差はないのかもしれないけど。

現在は、「低めに」展示するのが主流であるようだ。その方が、作品に対して親しみが湧くからである。高い位置に飾ると、作品が「遠く」に感じる。

日本の神棚は天井近くに取りつけられる。教会の祭壇画なども高い位置に配置されるのは、それが神聖で近づき難い存在であるからだろう。

ギャラリーでは作品は近寄り難くない方がいいのである。

本屋さんの棚を思い浮かべてみてほしい。棚の高いところは、なんか嫌でしょ?低い棚ってどんなに低くても大丈夫なのですよ。平積みの本はすごく低いところにあるわけだが、いちばん見やすいはずだ。

同じサイズの作品をたくさん並べるときに高さをそろえるのが普通である。高さを揃える場合すべて水平にすることはもちろんのことだが、隣同士の作品の高さを1ミリも違わないようにすることが肝心である。1ミリくらいいいんじゃないの?と思うかも知れないが、お客さんは意外と鋭いもので、ちょっとでも高さが違うと分かるのである。はっきり自覚はしなくても、なんか違うなあと違和感を感じているものなのである。高さをきっちり揃えると上品に見える。

またまた話は横道に逸れるが、わたしが昔、養護学校で教員をしていた時のことである。学校の壁には様々なお知らせプリントやポスターなどが張られているものだが、これがけっこう生徒に破られてしまう。生徒のいたずらであるわけだが、彼らはむやみやたらと掲示物を剝がしてしまうわけではない。わたしが教えていたのは知的障害をもった生徒たちだったが、彼らは(特に自閉的傾向をもつ生徒)驚くほど感受性が鋭く、ちょっとした違和感に対して激しく反応する。初対面の人間に対しては、一瞬で、この人は自分の「味方」か「敵」かを判断するし、気に入らない状況に対しては強い拒否反応を示す。掲示物を剥がしたりするのは、掲示の仕方が中途半端であるからである。つまり、水平でなく傾いていたり、ちょっとした破れがあったり画鋲が取れていて、紙がひらひら揺れていたりするからなのだ。

しいの木特別支援学校に赴任したときに、まずわたしが最初にやったことは、学校中の掲示物をすべて張り直すことだった。

港養護学校にいたときに、卒業生の作品を、卒業制作として展示することにしたのだが、そのときのことである。学校の卒業制作というと、普通は共同で大きな絵画を描いたり、焼き物を作ったりして学校に残していくものだが、わたしは一人ひとりの作品を額に入れて展示して、卒業式のあと、それを各自持ち帰るということにした。毎年毎年卒業制作を学校に残すとなると、設置して置くスペースが無くなってきて大変なことになってくるのだ。

生徒が作った木版画を展示することにしたのだが、額に入れて玄関に飾るという提案をしたら、会議で反対意見が出た。額なんか飾ったら、生徒が壊してしまうのではないか、というわけである。わたしは、生徒が壊すことは絶対にないという自信があったので、提案を押し通した。美しく展示をすれば生徒はものを壊したりしない。額は高さと間隔を揃えて、1ミリも狂わないようにした。文字通り1ミリも違っていない。

一週間ほど展示をしたが、作品は卒業式の終わったあと、無事に全員の手に届けられた。

同じサイズの作品を10枚、20枚と並べるときには、高さを全部揃えないほうがいいような気がする。四角の部屋の四つの壁面に全部同じ高さに展示すると、見る方は「肩が凝る」のだ。窮屈だし飽きてもくる。

変化をつけよう。

グルーピングの方法を使い、途中の何点かを抜いてグループを作ったり、さらに壁ごとに、あるいはグループごとに高さを微妙に変えていく。こうすると展示にリズムが出て見やすくなる。

作品と作品の間を等間隔にしないで、微妙に変えていくというのは高等テクニックである。ニューヨークのギャラリーなどでは、展示専門のスタッフが居ると思われるが、こういう高度なテクニックを使っていた。

展示が上手だなあと思ったのはベルリンのギャラリー。どこのギャラリーの展示もセンスが抜群だった。

◆キャプションをどこにつけるか

作品の下に、それもど真ん中につける作家、ギャラリーがあるが、間違いである。ど真ん中にキャプションがついていたら、ははあ、素人だなと思ってかまわない。

キャプションは作品の右下か右横、あるいは左下か左横につける。右側か左側かを決めるのは、会場の造りである。ギャラリーとか美術館とかでは、観客が歩いて作品を見ていくわけだが、その部屋によって、右回りの導線と左回りの導線がある。自分のギャラリーのことで申し訳ないが、Steps Gallery は左回りの構造になっている。お客さんは左へ左へと進んで行くわけである。こういう会場ではキャプションは左側につける。逆に導線が右向きの会場では、キャプションは右側になるのである。こうすると、先に作品が目に入り、そのあとでキャプションを見ることになるわけである。作品そのものを先に見てほしいという気持ちなわけよ。説明はあとで読んでね、ということなのである。

次にキャプションをつける高さである。作品の下5センチとか横10センチとか、作品に合わせた高さにすることが多いかも知れないが、それは間違いである。作品の高さに関係なく、キャプションをつける高さは同じにするのが正しい。どうしても難しい場合を除いては、全部同じ高さにする。こうすると上品に見えてかっこいいのだ。そして、同じ高さにあることによって、観客はちょっとした安心感を得るのだ。観客は作品→キャプション→作品→キャプション、と言うふうに視線を移動させていくわけだが、キャプションが同じ高さにあると、視線がキャプションに戻るときに楽なのである。

キャプションと作品の間隔も、ソーシャルディスタンスを充分に取るべきであることは言うまでもない。

キャプションを全く付けないという選択肢もある。こういう場合は、作品リストを掲示して作品にナンバーを振る。キャプションを付けない方がすっきりしてかっこいいわけなのだが、ギャラリーは、かっこよさを追求しない。それよりもお客さんにわかりやすいように展示するのが「お店」の仕事だと思う。作品の横にタイトルや値段が書いてあると親切なのである。

◆壁を見せる

上手い展示をしようと思ったら、作品をきれいに見せようなどと思ってはいけない。

作品ではなく壁をきれいに見せよう。

これが展示の奥義なのである。

どういうことか。壁の見せ方が美しければ、そこに配置された作品も自動的に美しく見えるのである。

具体的にはどうするのかというとですね、作品と作品の間に通路を作るのである。人の視線は会場で作品を注視しているのかというと、実はそうではなく、白い壁の上にも視線を走らせているのだ。壁の上を自由に視線を走らせたり歩かせたりすることができると、観客はほっとすることができる。壁上の散歩である。散歩するための道を作る。大通りや小道を配して変化をつける。広場なんかあったら楽しい。楽しい壁にある作品は素敵に見えるのである。「通り」の広さはどれくらいがいいのだろうか。

細かい話になる。作品と作品の間が1メートル以上あったら、そこは「大通り」と呼んでいいだろう。50センチ以下だったら小道ということになる。さて10センチはどうだろう。この辺から判断が難しくなるのだが、10センチは路地裏であろう。それでですね、5センチはどうなるかというと、これは道と呼ぶにはちょっと狭すぎる。先ほどの「視線」を散歩させるという場合、5センチは通り抜けるには難儀すると思う。迷っちゃうね。視線を迷わせてはいけないのである。こういう場合は、思い切ってもっと狭くしてしまって、3センチにする。こうすると視線は、ああ、ここは通れないんだなと判断することができる。

たとえば、100×100㎝ の絵を2枚並べて、間を3㎝ 開けたとする。この場合、作品を2点と数えないで、1点と数える。絵は2点あるけど、展示する場合はこれを1点と考えることで展示を進めるのだ。グルーピングの一種である。こうすると展示がしやすくなる。つまりグループはそのまとまりで1点と数えるのだ。

以上が、展示のコツの大まかな説明である。

これで終わりだが、なんだか言い残したことがいくつもあるような気がする。思いついたことを一つだけ。「プロになる」の補遺。

◆作家としての「勉強」

作家はもちろん一所懸命に制作をしてその技術を磨き、内容を充実させることが肝心なのだが、プロになるには当たり前のことなので、それ以外にこれが勉強になるよ、ということを三点。

1 本を読む

美術に関する本とか美術史とかの文献は読んだ方がいいだろう。フランシス・ベーコンも、作家を目指すなら、古代から現代までの美術史は、ざっとでいいから頭に入れておく必要がある、と言っいる。美術に関する本だけでいいのかというと、わたしは美術以外の本、小説や詩、哲学や評論なども積極的に読んだ方がいいと思う。まあ、面白そうだと思ったら何でもいいから読んでおくと必ずいつか役に立つ。

2 作品を実地で見る

とにかくたくさん作品を見ておくことが大切だ。本で見たりネットで検索して探したりする作品は「残らない」。実地でみた作品は忘れないんだよね。そしてそれを頭の中の引き出しに入れておくのだ。とても重要なのだ。美術館やギャラリーを見て回ることである。特にギャラリーは、現在生きている作家の作品を展示しているのだ。つまりライバルよ。ライバルの作品を見なくてどうするのだろう。ほとんど他の人の作品を見ない人もいる。美大生でもギャラリーに行ったことのない人がいる。わたしはそういう人にこう言いたい。「あなた本当は美術に興味ないでしょ?」

3 個展をする

個展をすること以上に勉強になることはない。

やってみて。

よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery 代表 2022年

03-6228-6195