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森口博子的な

横田増生の 『評伝 ナンシー関』 を読んでいたら、ナンシーが森口博子について書いた箇所にひっかかる。とりあえず何行か拾ってみる。

横田は、「頑張ることや、周りから一生懸命と見られる姿勢を嫌っていたことは、森口博子のことを書いた次の文章に現れている。」として、ここを引用している。

「うるさいとか目障りだという段階ではないのである。もう何か痛々しいとすら思えるのが森口博子だ。とにかく頑張り屋さんだ。確かに『頑張る』ということはすばらしいことであるが、森口博子の『頑張る』は、もうひとつ複雑である。頑張ることが何かの目標を達成するための手段ではなく、頑張ること自体が目標なのだ。頑張っているところを見てもらうことで成立するという存在のしかたをしているのである」

横田はこう結論づける。

「頑張るなら、黙って頑張れ、というのがナンシーの思いではなかったか。

ナンシー自身が、感情の起伏を周りに見せたがらなかった……」

ここまで読んで、わたしは、あ、森鷗外だ、と気づいて顔を上げた。

森鷗外も自分の個人的な感情や日常を見せたり語ったりすることが嫌いだった。

『鷗外随筆集』にそう書いてある。鴎外は随筆と批評文が好きではなかった。なぜかというと、随筆や批評を書くと、素の自分が見えてしまうからである。では随筆や評論は読まないのかというと、他の人の書いたものを読むのは大好きなのである。自分勝手である。

素の自分を見せたくないというところが、ナンシー関と似ている。

随筆嫌いである鴎外の随筆集というのは珍しいし、貴重なのであるが、「当流比較言語学」という文章の中でドイツ語のStreberという言葉の解説をしている箇所がある。わたしはドイツ語がまったくわからないが、日本語に訳せない言葉であるらしい。鴎外はこんなふうに説明する。

「Streber は努力家である。勉強家である。抗抵を排して前進する。努力する。勉強する。こんな結構な事はない。努力せよという漢語も、勉強し給えという俗語も、学問や何か、総て善い事を人に勧めるときに用いられるのである。勉強家という詞は、学校では生徒を褒めるとき、お役所では官吏を褒めるときに用いられるのである。

然るに独逸語のStreber には嘲る意を帯びている。生徒は学科に骨を折っていれば、ひとりでに一級の上位に居るようになる。試験に高点を贏(カ)ち得る。早く卒業する。しかし一級の上位にいよう、試験に高点を貰おう、早く卒業しようと心掛ける、その心掛が主になることがある。そういう生徒は教師の心を射るようになる。教師に迎合するようになる。陞(ショウ)進をしたがる官吏も同じ事である。その外学者としては頻に論文を書く。芸術家としては頻りに製作を出す。えらいのもえらくないのもある。Talentのあるのもないのもある。学問界、芸術界に地位を得ようと思って骨を折るのである。独逸人はこんな人物を Streberというのである。」

鴎外は日本語に訳せないと言っているが、ナンシー関ならこう訳すだろう。

「頑張り屋さん」

あるいは

「森口博子」

と。

美術界にも頑張り屋さんはいる。けっこう多い。

作品を発表するのは、いろんな人に見てもらって批評を請い、次の作品をさらに良いものにするためである。しかし、発表すること自体が目的になってしまっている作家がいる。たくさんいる。年配の作家に多い。

こういう人を森口さんと呼ぼうか。

2022年 7月1日

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