ものごとや現象を把握し説明するのに、その事象を分解し細分化して調べるという方法があるが、これはその事象の全体を叙述できる結果をもたらさないということは、まあ、自明であるわけだが、しかし、まったく用をなさないというわけではない。
今回(2014年10月6日(月)-18日(土)の十河雅典「不特定秘密絵画展」/Steps Gallery)の展示では、十河は、小品を70点並べ、壁面の3面を作品で覆った。しかもその1点1点がハガキ大に3分割されていて、見ようによっては、70×3枚の210画面と見ることも可能なのである。この夥しい数に対して、数学的なアプローチをしたくなるのも当然であろう、ということにして、わたしは敢えてこの作品群の細部に注目していくことにしたい。
70枚の作品には2種類の大きさがある。小さいサイズの15×31cmが40枚。大きめサイズの17×37.5cmが30枚である。小さいほうの作品はほぼハガキ3枚分の大きさで、大きめサイズは、それよりほんの少し大きい。
さて、この70枚、210画面の要素を何に絞って見ていくかというと、一つは「顔」、一つは「言葉」。この二つだけである。
さらに細かい要素に分けていくことも可能なのだが(配色、タッチ、画材等)、あまり細部に立ち入ると、抜け出せなくなってしまいそうだからである。
十河作品を分析し、いざ言葉にしようとすると、いきなり途方にくれてしまう。作品の軽快さやユーモアとは裏腹に、実は、作品の構造がかなり入り組んでいて複雑であるからだ。
言葉に託されたメッセージと、言葉自体を「絵」にしてしまう独特の画面構成。いろいろな要素を切り貼りしていくデザイン的な要素。ポップなものを貪欲に取り込んでいくバイタリティーと「若さ」。政治、経済から見た日本像。トロンプ・ルイユとも思える超絶技法。「楽しい」、「かわいい」と「怖い」、「不気味」が同居する捕らえがたい情念。力強さと投げやり感。エロティシズムと清潔感。
さまざまな要素が、複雑に絡まりあいながら、しかし出来上がった作品は非常にストレートにわれわれにメッセージを伝えてくるのだ。
十河作品を鑑賞するには、この複雑な構造を理解する必要はない。そのまま、複雑なまま、わからないまま作品を見ていくことは、それはそれで実に楽しいし、至福のときをわれわれに与えてくれるからだ。
しかし、少し欲を出して、この構造を自分なりに分析してみると、ひょっとしたら、新しい発見や新しい楽しみ方を見つけることになるかも知れない。逆に、せっかくの作品をその見方によって台無しにしてしまうことにもなりかねないのだが、ここは、まあ、とにかく進んでいってみることにしよう。
描かれた「顔」は明らかに人間であるとわかるものもあるが、動物なのか植物なのか、妖怪なのか判然としないものも含まれているが、目と口があれば顔である、ということにして数えていくと、全部で164面あった。210面中の164面なので、およそ78%が顔であるということがわかる。多い。約8割、つまり10枚のうち8枚が顔であるということになる。十河雅典のモチーフの8割が顔であるということは、彼の顔に対する興味がいかに強いか、ということを示してもいる。
顔に比べて、その身体はどうかというと、胴体が描かれたものはほとんどなく、顔だけがクローズアップされ、手や足が申しわけ程度についていることが時々ある、といった具合なのだ。
われわれはここから、顔の表情からメッセージを読み取れ、という作家のメッセージを理解しなければならない。
その表情については後述するとして、次に「言葉」を見ていこう。その数およそ40。これは約5分の1と考えると、5枚に1枚が言葉が描かれた画面であるということがわかる。これは「顔」の数に比べると少ないが、その直接的なメッセージ性と効果を考えると、決して少ないとは言えない。十河は裏文字を使ったり、まったく読むことが不可能な「十河文字」を駆使したりするから、判読不能な部分もあるのだが、読めるところだけを列挙してみよう。
消費社会/SONY/TOYOTA/キューピーマヨネーズ/男/本日ハ晴天ナリ/笑ウト死刑 笑ワナイト終身刑/核/けんこう/りんかいじこ/YEN/あ、せんそうだ/みそしる/おはよう/とくていひみつ/とうちょう/みんしゅしゅぎ/しょうひん/せんぜん/せんご/かいが/終/おににかなぼう・そにい/ろんよりしょうこ・とよた/TOYOTA/天/狂/WATER/トクテイヒミツ/SOS/国亡軍/学校/オメオメト生キルタノシサ/マタ ウンコガヒトツ/じゅうまんねん/げンパつ/平和/人/TOYOTA/SONY/カクセンソー/アッソウ・センソウ/トウデン
特に解説は必要ないだろう。一瞥しただけで、十河の関心がどのあたりにあるのかは了解できるはずである。
告発ではない。諦めでもない。これらの言葉から、言葉を通して見えてくる風景をわれわれ自身が探すべきである、と作家は訴えているのだ。さらにこれらの言葉が彼の「顔」と同じ画面に配置されたときに、とんでもない力と衝撃を生む。それは爆発といってもいいような破壊の力である。
「顔」に話を戻す。
十河の描く顔は、みんな目を大きく見開いている。そしてその視線は焦点を失い、どこを見ているのかわからないあやふやな方向を指している。それらは、笑った口、歯軋りしている口、ぽかんとあいた口と相俟って異様な雰囲気をかもし出しているのだ。
「顔」によって、「言葉」は呪いに変容する。
われわれは、言葉を通して世界を見る。世界に意味が付加される。
しかし、十河は、言葉の「あちら側」から世界を見ているのだ。
見田宗介は「宮沢賢治-存在の祭りの中へ」(岩波現代文庫)の中で、詩「青森挽歌」の冒頭の2行に関して、詩人が汽車の内側と同時に外側からの視点を獲得していることに注意を促している。
「そしてこのように、わたしたちが外部に見ているものの内部にいきなり存在している、という変換の自在さは、―このようなことをうけいれる空間感覚とともに、―じつはこの詩の冒頭の二行のうちに周到に用意されている。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
このとき詩人は、自分の乗っている汽車をその外からみている。おそらく黒くひろがった野原のはてからみているのである。わたしたちは、内部にありながら同時に外部にあるという二重化された眼の位置を、何の不自然さもないように詩人と共有してしまっている。」
十河は、おそらく言葉の外部と内部を自由に行き来する自由さと不自由さを味わっているのではないだろうか。
賢治の「汽車の窓」を「言葉」と置き換えるならば、汽車の窓のあちら側から見た風景はどんなものであろうか。汽車の窓は水族館の窓に見えたかもしれないが、十河が言葉のあちら側から見た風景は、人間は、社会は、日本は、おそらく十河の描く顔に象徴されている。
それはいったいどんな「顔」であるのか。
それは「狂気」である。
よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery代表 2014年10月