望月久也は、大学時代から一貫して金属を使って抽象的な彫刻を作ってきた。主にステンレススティールを使ったシャープな形を追求してきた。
たとえば、2004年に発表された「月下点」という作品は、両側端が鋭利な錐のような形をした筒型をしている、長さ240cmの大きな塊である。これが床に3体転がされている。非常に研ぎ澄まされたミニマルアートといってもいいような単純な形なのだが、しかし、その単純な形は、よく見ると洗練された微妙な曲線や緻密に計算された構造を持ち、単純でない物語を語っているようにも見えるのである。ある意味、饒舌で複雑なのである。
今回の個展(2017年10月23日-11月4日/Steps Gallery/銀座)では、その様相が一変している。鉄で作られた少し丸みを帯びたごろんとした形の上にピラミッドのような四角錐が5つ載っただけの彫刻である。同じような形体のものを木でも作った。非常に静かな寡黙な印象を与える作品になっている。上記の「月下点」とは明らかに違っているのだが、どこがどのように違うのか、少し考えてみたい。
素材の問題がある。彼は長年、ステンレススティールを使って作品を作ってきた。ある意味その道のプロということが出来るかもしれない。2002年には銅を使った作品を作っているし、2014年の個展では石(インド白砂岩)を彫り出している。そして今回の鉄と木(泰山木)である。
そもそも、形の面白さや美しさを追求するだけなら、素材を変える必要性はないはずである。慣れた扱いやすい素材だけでいい。しかし、望月はなぜか素材を変えてきている。それは、興味本位の、面白そうだからとか、いろんな素材を試してみたい、というような動機ではないのだろうと思われる。違う素材で形を追求するため、というよりも、素材を変えることで形の追求を止めるという意図を感じるのだが、どうだろうか。形を追い求めない形。つまり、見える形にこだわらないということである。分かりやすく言うと、今までの作品はユニークな形を通して、いろんな思いを伝えようと「話し上手」になっていたのだが、それが次第に言葉数少なく「沈黙」に向かってるということである。
形の問題。望月は形にこだわってきた。すっきりした無駄のない形を作ろうと悪戦苦闘していたのではないだろうか。しかし、その努力を重ねれば重ねるほど、作品は、逆に形を主張し始め、饒舌になっていく。形を見せようとするとその賑やかさによって伝わらなくなるものがある。彼はそのことに気がつき、形の追求を止める。形を見せる作品は、それはそれで、見る人を楽しませるのだが、何かが違うと感じたのだろう。その辺の心境の変化はどのように起こったのかはわからないし、人生という難問に立ち向かう姿勢が生じたのか、あるいはただ年齢を重ねた結果なのか、そのあたりは分からないが、作品を見せる側の彫刻家ではなく、作品を見る側の鑑賞者に意識がいくようになったのは間違いがない。作品とは、作家が作品を作るだけでは作品として成立しない。見る人の目と思いがあって初めて作品となりうるのである。望月はそのことに気がつき始めたのである。
今回の作品「顕潜・弦」(鉄)と「顕潜・直」(泰山木)は静かに沈黙を守ったまま、そこに形を主張しないままで存在している。見るものを圧迫することなくわれわれを優しく受け入れる。
望月の作品は、「話し上手」から「聞き上手」に変化してきているようである。
(2017年 11月)