Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

ミリツァの家

羽田空港。国際線のチェックインカウンターでEチケットを手渡して搭乗券に換えてもらう。スタッフの女性はEチケットをちらっと見て

「ベルグラードですね」と言う。わたしは

「いや、ベオグラードですよ」と訂正した。

「ベルグラードと書いてベオグラードって読むんです」

ベオグラードはBelgradと書くのである。航空会社のスタッフがベオグラードが読めないのは仕方がないのかも知れないが、次の言葉には、さすがに驚いてしまった。

「ベオグラードってどこですか?」

じつはベオグラードがどこかわからないのも、彼女の不勉強のせいばかりではない。空港のスタッフなのだから、世界中の国の名前、都市の名前などは、ほとんどすべて頭に入っていていいはずなのだが、彼女はベオグラードがどこにあるのか知らなかったのだ。これはどういうことかというと、彼女の仕事でベオグラードという都市名を耳にすることがなかったということを意味している。つまり、ベオグラードに旅行をする日本人はほとんどいないということなのである。

ベオグラードはセルビア共和国の首都である。旧ユーゴスラヴィアがいくつかの国に別れたが、そのなかでいちばん大きな国がセルビアである。

われわれ一行はそのセルビアに向けて飛び立った。2015年の5月のことである。われわれ一行というのは、現代美術家の倉重光則と、モダンダンスのカセイ イノウエ、ワカコ イシダの二人にわたしを加えた四人である。何をしに行くのかというと、倉重とわたしはベオグラードで展覧会。そしてダンスの二人はその展覧会場でのオープニングでダンスを披露することになっているのである。

フランクフルトで乗り換え。時間がたくさんあったので、空港のレストランに入り、みんなでビールを飲む。フランクフルトに来たのだからソーセージも食べる。なかなか美味しい。

フランクフルトから小さい飛行機に乗り換えてベオグラードに到着。空港には、ミラン・トゥーツォヴィッチと娘さんのヨヴァナ、作家のサーシャ・マリアノヴィッチが車で迎えに来てくれていた。

市内を車で走っていると、ときどき爆撃に遭ったそのままのビルが無残な姿で残っているのが見えた。1999年のNATO軍による空爆の跡である。

わたしたちは、まず宿舎であるゲストハウスに荷物を置き、シャワーを浴びてから食事をすることにした。街中を案内してくれたのは、サーシャとヨヴァナである。サーシャは女性のような名前であるが、髭もじゃのいかつい男である。絵描きである。われわれといっしょに展示をすることになっている。ヨヴァナは大学を卒業して間もない。彫刻を専攻していたが、最近は絵画も手がけるようになった。倉重とわたしは二人に連れられてレストランに入った。ワカコとカセイは別行動で市内を散策。とりあえず何か食べようということになり、ものすごくお腹が空いているわけではなかったので、軽くおつまみとビールで、ということにした。つまみは、肉の盛り合わせというのがあったので、それを4人で食べればちょうどいいではないかと考えて、わたしたちはそれを注文した。ビールで乾杯。疲れた身体にアルコールが染み渡る。肉の盛り合わせが運ばれてくる。わたしと倉重は絶句した。大きな皿に肉やソーセージやハムなどがてんこ盛りで湯気を立てているのだ。4人で半分も食べられず、残りは持ち帰ることにしたのだが、それは翌日のわたしと倉重の食事になった。

一旦ゲストハウスに戻り、休憩を取る。ヨヴァナが、あとで迎えに来るからと言って帰っていった。ちょっとうとうとしてる間に夕方になり、ヨヴァナがわれわれを迎えに来る。これからミランのギャラリーで、歓迎会が行われるのである。日本から来たわれわれ4人はヨヴァナの後を歩きながら、ベオグラードの中心部を急いだ。街を歩く人たちは、男も女もみんな背が高い。そして噂どおり美人が多い。美人だらけと言ってもよい。倉重は、日本に帰りたくないなどと言っている。

ウロボロスと名づけられたミランのギャラリーには、展示室が二部屋あり、かなり広くてきれいである。今は展示をしていなくて、ミランがアトリエとして使っている。ギャラリーにはミランの油絵が所狭しと並べられていて、一番大きな作品は幅が3メートル以上あった。ギャラリーの真ん中に大きなテーブルが出されていて、ワインやビールが並んでいる。セルビアの、果物から作る蒸留酒ラキアももちろん用意されている。ラキアはアルコール度数が40度あり、かなり強い酒だが、どこの家でもお客さんがあると、お茶の代わりにラキアを出すのだった。ワインで乾杯して、生ハムやパンや新鮮な果物をつまんだ。

そこに、ミリツァ・ニコリッチがそうっと入ってきた。あ、ミリツァだ。彼女はにこにこしながらわたしに近づいてきてハグした。

パーティーは賑やかに進行した。われわれ日本人4人のほかに、ミランと奥さんのミラさん。ベオグラード大学教授の山崎洋・佳代子夫妻、息子さんで日本大使館に勤めている久さん。サーシャとヨヴァナ。たまたまベオグラードに寄ったとういう歌手のマリさん。そしてミリツァ。

ワインが入って陽気だったミランがさらに陽気になり、日本の歌をうたうと言い出して

「タンタンタヌキノキンタマワー」

と大きな声で歌いだした。「悪い日本人の友達」に教えられたらしい。みんなは歌の意味を知っているらしくげらげら笑っていた。「悪い日本人」は「チチデカイ」とか「チンポタツ」とかの言葉も教え込んだらしい。ミランの好きな日本の言葉は「風の吹くまま気の向くまま」だそうである。

ミランの絵は、伝統的な油絵の技法で人物を描くという、ちょっと見ると「古い」タイプの絵に見えるのだが、そのメッセージと思想は現代美術そのものである。

サーシャは鉛筆を使って超写実的なテクニックでこれまた人物や風景を描く。彼の今回の出品作のテーマは「戦争」である。サーシャもウッドベースの口真似を交えながら歌をうたった。

次々に歌はうたい継がれて、ミラさんはセルビアの民謡を披露し、マリさんは日本の歌を紹介した。

会は夜更けまで続き、遅くなってしまったので、みんなでタクシーで戻った。日本円で370円だった。

セルビアの通貨はディナールと云い、1ディナールは約1円なので、計算が楽だった。セルビアの物価は、日本人からみると、とても安くて生活しやすいのかなと思ったのだが、こちらの経済は低迷していて、平均的な給料は月3万から4万円くらいなので、物価が安くてもそう楽ではないのだった。日本からセルビアに来るのはそれほど高くはないのだが、セルビアから日本に来るには、飛行機代だけで大変な出費になるのである。

ミリツァは、定職をもっていなくて、バイト生活をしていたのだが、そんななかで1年、2年と働き、こつこつお金を貯めて日本に来たのだった。彼女は写真家である。生まれ育ったゼムンという町の写真を撮り続けていて、いつか日本で作品を発表したいと思っていたのである。そして2012年6月、ついに彼女は日本にやって来た。彼氏のイヴォンも連れてきた。

展覧会に出品した写真は、ゼムンの街をていねいに撮り続けた静かな写真だった。なんでもない風景写真がこれほど胸を打つのはなぜだろう。展覧会初日、オープニングパーティーで挨拶したミリツァは,長文をしたためた紙をとつとつと読み上げた。

日本滞在中は、東京周辺の街を歩き回り、シャッターを切り続けた。ミリツァにとっては、日本への旅行は「夢のような」体験に違いなかった。彼女はセルビアに帰ってから、友人知人に、私は日本のことならなんでも知っているからなんでも訊くように、と自慢しながら触れ回ったらしい。

その後、わたしのギャラリーでは2014年にミラン・トゥーツォヴィッチの個展を開催し、セルビアとの関係が深まった。あるとき、ミランから、吉岡の個展をベオグラードで企画するから来ないか、という誘いがあった。ギャラリーを押さえてあるからという。わたしは、せっかく企画してくれたのだから断ったら悪いなあと思い、ではやる方向で考えましょうと答えたのだった。さらにしばらくすると、もう一軒ギャラリーを使えそうだから、もう一人作家を連れてきてもいいと言ってきた。そのことをわたしの銀座のギャラリーで話題にしたときに、たまたまそこに居た倉重光則が、

「オレ行く!」

と言って立候補したのだった。

さらに一ヶ月ほどしたころ、ミランから、せっかくだから個展ではなくて、4人展にして大きな会場でやろう、と言ってきた。断る理由もないので、それではよろしくお願いしますと返事をした。

最初はユーゴスラヴィア博物館で、という話だったのだが、他の展覧会とかぶってしまったということで、最終的に、セルビア国営放送局ギャラリーで、ということになった。日本でいったらNHKのギャラリーで、ということである。なかなか立派な会場である。

今度、セルビアに行くことになってね、とある日ギャラリーで話していたら、訪ねてきていた、ワカコさんとカセイさんが

「いっしょに行く!」

と言い出したので、それも断る理由がないので、結局倉重と合わせて4人の旅になったのだった。セルビアに連絡をして、せっかくなので展覧会場で2人のダンスを披露できないかという提案をしたら、2人の経歴や作品などを送った結果、ではオープニングでダンスをやってもよいだろうという返事をもらったのだった。

 展示の設営が始まり、作家はそれぞれ自分の作品にかかりきりになった。夜はみんなでレストランに行ったり、ミランの家でドナウ川で獲れた鯉を調理してもらったりして食べた。

 三日かかってようやく展示が終わり、展覧会初日を迎えることになった。会場は300人ほどのお客さんで埋まり、パーティーが始まった。最初にカセイさんとワカコさんのダンス。これは終了と同時に大喝采を浴びた。

 展覧会の評判は上々で、みんな興味深く作品を見ていた。会場はテレビ局なので、もちろんテレビのインタヴューもあり、ニュースになったようである。作品をじっと見ていたおばあさんが、わたしに近づいてきて、あなたの作品が一番良いわ、と耳打ちしたりした。

その後は、ミランたちが組んでくれた日程に従って、毎日ベオグラードと、近郊への観光に忙しく過ごすことになった。空いている日はほとんどなかった。少し疲れてしまったが、これが彼らのおもてなしであり、心地よい疲れだった。なによりも、セルビア人は、初対面でも気を許せるようなところがあり、安心して街を歩くことが出来たのである。

展覧会の初日にミリツァが、日程のどこかで、空いている時間はないかと訊いてきた。彼女は、わたしを観光案内したいようなのであった。ミリツァの住んでいるゼムンに連れて行きたいと言った。日程を調べてみると生憎ベオグラードを発つ前日しか空いていなかったので、その日の午前中でよければと答えると、彼女はそれでいいと言う。じゃあ、朝、ホテルまで迎えに来るねと約束した。

 日本に帰る準備、つまりスーツケースに荷物をまとめる作業があったのだが、わたしは、約束の午前9時にホテルのフロントでミリツァを待った。ほどなく彼氏のイヴォンとともにミリツァが現われた。早速3人でゼムンに出かけることにした。バスで移動するようである。バスの中では、ここに座れるからどうぞ、と席を探してくれたり、車窓の風景を説明してくれたりで、ミリツァとイヴォンは喋りっぱなしである。セルビア人というのは、みんな本当にお喋りなのである。たえず喋り続ける。そして嬉しそうににこにこしている。20分ほどでゼムンに到着。

まず、ドナウ川沿いを、船や白鳥が浮かんでいるのを眺めながら歩いた。うららかな陽射しが気持ちよかった。ミリツァの写真はドナウ川の風景が多い。しばらく歩を進めると、市場に着いた。野菜や果物、ドナウ川で獲れた魚が並ぶ賑やかな市場である。魚を買い求めたいときはこの市場に来るのだそうだ。

次に訪れたのは、望楼というのだろうか、見張りのための灯台のような形をした高い建物で、昔はトルコ軍を警戒するために使われていたのだそうだ。今は、ミニ博物館のように、いろんな展示がしてあった。わたしはここで個展をやる計画がある、とミリツァは言った。

そのあと、市街地に入って古い家並みを眺めながら歩く。石畳の道が続いている。これは有名な由緒ある石畳なんだよ、と説明してくれたが、何箇所も欠けたところが目立ち、補修もしていないようだった。ここはパン屋さん。ここのパンは美味しいのよねえ。あ、ここはバー。みんなでよく飲むんですよ。街のそこここに立ち止まっては、細かい説明をするミリツァ。ここがわたしの好きな街、という気持ちがストレートに伝わってくる。

だいぶ歩き回って、疲れが出てきたころ、ミリツァが

「もしよかったら、わたしの家に寄っていきませんか」

と言う。

「時間がなかったらいいけど、少し休んでいったらどうかしら」

わたしは、せっかく言ってくれたのに断るのも変だし

「行くよ」

と即答した。

彼女の家に着くと、お父さんとお母さんが迎えてくれた。ミリツァはまだ20代のはずだから、ご両親もわたしとそれほど歳は離れていないと思うのだが、お二人ともずいぶん前に引退したようにひっそりと暮らしている様子だった。

お父さんは、壁一面に掛けられたイコンを見せてくれた。とても大切そうに、一つひとつていねいに説明してくれた。セルビアはセルビア正教の国である。 

お母さんは、飼っている二匹の猫を見せたかったらしく、どこかに遊びに行ってしまったらしい猫をしきりに気にしていた。吉岡さんが来たら、猫を見せてあげたいとずっと思っていたのに、残念でたまらないというような素振りだった。

わたしは椅子を勧められたので、ゆったりとしたクッションに身を沈めた。イヴォンは、靴を脱いでこの足載せ台に足を載せたらどうですか、と気を遣ってくれる。大きな窓からは、塀とその上の青空が鮮やかに輝いて見える。

セルビアのどこの家庭でもするように、小さなぐい飲みにラキアを注いで渡してくれる。最初はあまりに強くてなかなか飲めなかったのだが、このころにはだいぶ慣れてきて、美味しいと感じるようになってきていた。お母さんは、台所に立っていく。見ていると、冷蔵庫から大きな皿をいくつか取り出して、テーブルに置くのだった。その料理というのが、お客さんが来たからなにかあり合わせで作りましたというものではなくて、前もって準備した凝ったおしゃれなおつまみが何種類も並んだものだったのである。セルビア料理というのは、とても美味しいのだが、たくさんは食べられない。カロリーが高くて、少量でお腹が満たされてしまうものが多いのである。わたしは、舟の形をしたパイのようなものを食べて、ラキアを飲んだ。食べながら、こんなに凝った料理を出してくれるというのは、吉岡さんが来るから特別に作っておかなくては、と考えたからだろうと思われた。

しかし、さっき、ミリツァは「もしよかったら」と言ったのではなかったか。もし、わたしが、今日は疲れているから遠慮しておくよ、とミリツァの家に来なかったらどうしたのだろうか。お母さんが作ってくれた料理はどうなっただろうかと想像すると切なくなった。やっぱり吉岡さん来なかったわねえと言って、家族で食べたのだろうか。

わたしは、舟のおつまみをもう一つつまんで、ラキアを飲み干した。残ったつまみの半分ほどをお土産にして包んでもらった。今夜、倉重と二人でこれを食べながらビールでも飲もう。

帰る時間になったので、わたしはお礼を言って立ち上がり、玄関に向かった。振り向いて窓から外に目をやると、猫が二匹、塀の上を歩いているのが見えた。

2018年 6月

03-6228-6195