ブレーメン在住のアーティスト、ウテ・ザイフェルトが、東京は銀座にあるSteps Galleryで作品を発表したのは2014年のことだった(ウテ・ザイフェルト展/8月25日-9月6日)。
大がかりなインスタレーションを敢行し、その設置には時間がかかった。さらに映像用のDVDを作り直したりしたため、ほとんど一週間を費やすことになった。
メインの作品は、90cmの木の棒4本で作った正方形の枠に透明なビニールシートを張り、それを天井から吊るし、1mくらいの高さに固定したものだ。ウテさんは、その木枠が完全に水平に保たれるように細心の注意を払う。その中に水を注ぎ入れる。6リットルから7リットルほど入れると、ビニールがたわみ、小さな円形のプールができる。横から見ると、レンズを横からスライスしたような形になる。天井からスポットライトを当てると、床面に水が映り、レンズ効果もあってか、水面がゆれるときらきら光って見えた。
壁には映像が流れる。水滴が1滴ずつ落ちてくる、ただそれだけの画面がいつまでも続くものだった。
小品が何点か壁に掛けられたが、それは、トレーシングペーパーにマニュキュア用の薄め液でドットをたくさん並べた作品だったが、わたしはこれが 「水」をテーマにしたものであることに、迂闊にも気づかずにいた。あとで思い起こして、この展示はすべて水を表現したものであることがわかったのは個展が終わってからであった。
2回目の個展(2019年 6月3日(月)-15日(土)/Steps Gallery)では、平面作品をたくさん並べた。画面を2分割して、それぞれの面をエッグテンペラで丹念に塗りこめていったものである。ウテさんはこんな絵画も描くんだね、と軽く考えていたのだが、わたしは本当に間抜けであり、この画面の下には「水」が潜んでいるのだということにも気づかずにいたのだ。
平面作品のほかに、額縁とランプを使ったインスタレーション作品も同時に展示されたのだが、こちらはひょっとすると、これは「水」ではないか?と思わせるものがあった。どういう作品かというと、絵もなにも入っていない額縁のアクリル板の面に、白いインクで文字がドイツ語と日本語で書いてある。ところが、額の底面には白い紙が置かれているので、文字は全く見えないのである。アクリル板と底面は数センチの距離がある。ここに、天井から額縁の上に吊り下げられたランプを点灯させると、白い文字の影が白い紙の上に黒く映りこみ、印刷されたようにくっきりと浮かび上がる。アクリルの上に書かれた文字は見えないのに、影だけが見えるという眩暈を起こさせるような効果を生んでいた。これは水ではないかとわたしはとっさに思った。海の中に潜って水面を見上げているような気分になってくるのである。
この個展と同時期に、三浦にある倉重光則のアトリエで開催された5人のグループ展にもウテさんは参加した(「FAR AWAY Ⅲ 遠くへ」 6月8日・9日・15日・16日・22日・23日 スタジオ K)。
海のすぐ近くにあるこの会場で、彼女は水そのものの展示を目論んだ。数本のビンに詰められた水がテーブルの上に置かれていた。この水は、世界の各地で採取された自然の水である。海や川、湖などの水をそのまま集めたものである。水道水やペットボトルで売られている水でもない。世界各地といっても、全部に行って水を取ってくることは難しいので、世界各地に住んでいる友人たちに協力してもらい、水を送ってもらうのだ。ウテさんはこういう方法で世界各地の水をコレクションしている。それは、いまでは夥しい数に上っているのだが、それらを全部日本に運ぶことはできないので、今回は数ヶ所だけになったというわけである。何処の水がどれくらい集まっているのかを示すために、いままで集めた水の採取地を、布に印刷して、会場の天井から吊るした。おそらくそれは数百に上るはずである。
ウテさんは、この水についてこう言っている。水はそれ自体では純粋に水であるのに、現代ではそれが、政治や経済の道具になってしまっているのではないか。世界各地の水は、単なる水ではなくなって、争いの元にもなり、その水面は人間の欲望を写す鏡と化している。
同じ会場内に海面の写真が掛けてあったのだが、わたしはそれを見てすぐさまSteps Galleryで展示中の絵画作品を思い起こした。海面の写真は絵画作品の表面を連想させた。この時わたしは、ウテ・ザイフェルトの作品がすべて水で繋がっていることをようやく悟ったのだった。
絵画、写真、映像、インスタレーションと、表現の方法が多岐に渡るウテさんの作品群は、一つひとつを個々に注意深く見ていくならば、その一番底の部分に「水」が流れていて、全部つながっていることを感知することができるはずである。それは複雑でありながら、全体として大きな流れが出来ているのである。
そういえば、前述のビニールシートに水を満たすときに、彼女は、「自然の」水ではなく、ペットボトルに入った何の特徴もない水を選んだことを思い出す。それは世界の「地域の」水ではなく、「純粋」な水を見せることが目的だったからであろう。ウテさんは、2日に一回水を全部入れ替えることも要求した。それは、埃のような「不純物」が入らないようにという配慮であり、水に対する執拗なこだわりなのである。
しかし、思うに、実験室で生成された純粋なH2O以外に、「純粋な」水など地球に存在するだろうか。いや実際には本当の水などないのかもしれない。
ウテさんは「各地の水」を集めているが、それは現在も進行中であり、水はどんどん集まっている。いつか本当の純粋な水が見つかるのではないかと思っているのかもしれない。
水は雨や雪となり降り積もり、山から水が流れ出し、川になり、あるいは地下の水脈となり大地を潤す。それは、ゆっくりと時間をかけて拡がっていくものである。
ウテ・ザイフェルトの水も同じように、絵画やインスタレーション、映像となってわれわれの心に染み渡ってくる。
その染み渡ってくるものを、わたしたちは純粋な水と呼ぶことにしよう。
よしおかまさみ/Steps Gallery代表 2019年9月