作品についての批評を書く場合に、作家のエピソードから始めるのは、あまりほめられた方法ではないが、ここでは敢えて書いてみる。
2015年 6月 ベオグラード
わたしたちは、ベオグラードの繁華街にあるカフェでお茶を飲んでいた。倉重光則とわたしが日本に帰る前日の夜だったと思う。送別会というわけでもないが、これでお別れということで、店の外に置かれたテーブルと椅子を占拠しておしゃべりに興じていた。いっしょに展覧会に参加したサーシャ ・マリアノヴィッチを始め、何人かの友人たちが集まってくれたのだった。
昼の暑さがようやくおさまり、風を涼しく感じながら、コーヒーやビールを飲み、煙草をふかしたりしていたのだ。みんなが大きな声で話したり、笑ったりしているときに、すぐそばをロマの老人が通りかかった。ロマというのは、日本人にはジプシーという言い方のほうが馴染みがあるかもしれない。仕事に就くことも難しく貧しい人が多く、物乞いをする人も珍しくなかった。その老人も例に漏れずお金を恵んでくれるように頼むのだった。物乞いはある意味、日常風景でもあるので、わたしたちは知らないふりをしてその場をやり過ごそうとしていた。そのとき、ミランが老人を呼び止めてポケットから手づかみでお金を出して老人の手に握らせた。ミランは財布を持つことをしない。お金は紙幣も硬貨もそのまま裸でポケットに入れておくのだ。ミランはいくら出したのか数えもせずに無造作に老人に渡したのだ。老人はそのお金を驚いたように見つめながら、何かをつぶやいていたが、その様子から、こんなに貰っていいのか?と言っていたのに違いない。まわりに居たわたしたちは、何も言えずにただミランを見ていた。
今、このことを思い出して、わたしはあることに気づくのだ。ミランは「人間」を描く肖像画家であり、肖像画を描くときには、その人物と対等に向かい合う。どんな人とでも平等につき合う。老人にお金を渡したときも、まるで友だちにあげるように自然にポケットをまさぐっていたのだ。
ロマの老人を無視したわたしたちに、肖像画を描く資格はない。
肖像画を描くことができるのは、ミラン・トゥーツォヴィッチである。
「2+2」 2015年 5月30日(土)-6月19日(金) セルビア国営放送局ギャラリー
ミラン・トゥーツォヴィッチ/サーシャ・マリアノヴィッチ/倉重 光則/吉岡まさみ
2019年3月 神奈川県 三浦/日本
倉重光則のスタジオに滞在しながら、ミランは作品の制作をした。
早稲田大学内にあるWASEDA GALLERYで開催されたグループ展に出品するために来日したのだが、日本で作品の仕上げをしたいというので、倉重スタジオに滞在することになったのである。展覧会には、ステップスギャラリーにある作品を出すから、来日の必要はないと伝えたのだが、本人は新作を出したいというので、日本にわざわざ来ることになったのであった。
三浦から見た太平洋は彼に強烈な印象を残したようである。
ミランは英語がほとんどできない。セルビア語だけである。倉重も英語を話すことはできない。日本語だけである。二人はどうやって意思の疎通をしていたのだろうか。
ミランは一日分の作業が終わると、夕方から倉重とワインを飲み交わしたらしい。言葉の通じないはずの二人は、通訳も交えずに、げらげら笑いながらワインを飲んでいたそうである。どうやって話をしていたのかと倉重に訊くと 「テレパシーだよ」 と答えるのだった。
言葉を使わないと話が出来ないわたしたちにも、肖像画を描く資格はないのかも知れない。
肖像画を描く資格などという以前に、そもそもわたしたちにはミランのような観察力も卓抜した技術もあるわけはないのだが、肖像画や人物画は技術だけで描けるわけではないということをミランの絵は教えてくれるのである。
「FAR AWAY -遠くへ」 2019年 3月5日(火)-14日(木) WASEDA GALLERY
ミラン・トゥーツォヴィッチ/倉重 光則/十河 雅典
わたしが初めてミランの作品を目にしたのは、銀座と舞浜の2会場で開催された個展でのことだった。
ミラン・トゥーツォヴィッチ 展
2013年 10月5日(土)-14日(月) b-stile (ビースティーレ)・舞浜/306号室・銀座
306号室というのは、奥野ビルにある一室で、様々な展示を企画しているスペースなのだが、以前は床屋さんが入っていたらしい。ミランは、この元床屋に敬意を表するためか、ただ床屋という場所にインスピレーションを得たためか、「床屋シリーズ」の絵画を持ち込んできた。なにやら大きな木箱の端に太い筒が取り付けてあって、そこに中年の男性の顔が描いてある。その筒にはレバーが付いていて、それを回すと、筒が回転し、裏からもう一人の男が現われるという仕掛けになっているものなのである。この二人の男性は、セルビアの床屋さんだった人たちらしい。ミランはこの二人のことを詳しく調べてから肖像画に着手した。
この作品のほかに、「床屋に訪れたお客さんたち」というタイトルで、9枚の肖像画を並べた。小さい画面に、床屋関連の器具を取り付けた小品で、それぞれに、家族や友人などの顔を描いたもので、みんな床屋に来たお客さんという設定である。縦に3点、横に3点の9枚の絵画を並べたのだが、中央の一枚には絵の代わりに鏡が取り付けてあって、観客が鏡を覗くと、自分の顔が映り、9人目のお客になるという仕掛けなのであった。
「筒」の作品の二人の人物は、昔の人らしいので、ミランは直接会ったことがないわけだが、どういう人で、どんなことをしてきたのかを丹念に調べてから制作にとりかかった。
「お客さん」の作品は、全員が知り合いで、どんな人なのかは、知りすぎるくらい知っている人たちである。
〈モチーフ〉
ミランの絵画はすべてが人物画である。何人かのグループの人物を描いた作品もあるが、そのほとんどは一人の人物を選んで描いた肖像画である。風景や静物だけを描いた作品をわたしは見たことがない。それはごく単純な理由であって、彼にとって人物に対する興味がすべてであった、ということなのだろう。人間が好きなのである。人物の顔だけを描くのではなく、周りには、その人物に関わるいろいろなイメージがちりばめられる。その人の好きなもの、仕事に関わるもの、辿ってきたであろう今までの時間と思い出、そういった諸々の過去が展開されて、その人の姿といっしょに配置されるのだ。
そこには、その人物の「歴史」が浮かび上がってくるのである。
フランスの作家、ゴンクール兄弟はその著書 『十八世紀の親しき人々』 の序文で
「歴史は何をおいても、私的な生活の物語でなければならない」
と明言したが、このことばが真実であるとしたら、その逆もまた意味のあることとしなければならないだろう。すなわち、
「私的な生活の物語を描くことは、歴史を描くことである」
と言い換えることができるはずである。
ミラン・トゥーツォヴィッチが描くのは、肖像という姿かたちではなく、その人物の物語であって、その物語は、われわれ人類の「歴史」を描くことにほかならないのだ。
ギュスターヴ・クールベが大作 「オルナンの埋葬」 を発表したときに、作品に対して非難が起こったことをご存知の方もいらっしゃると思うが、なぜ非難されたかというと、名も無き村人たちを大きな画面に描き、立派な風貌と威厳のある表情で表現したからであった。「まるで歴史画のようではないか」というわけである。村人を歴史画のように描くべきではないという非難。しかし、クールベはこう思っていたに違いないのだ。「これは歴史画である」と。
記憶が少しあやふやなのだが、たしかミラン本人が「土着」ということばを使って自分の作品を説明していたように思う。この「土着」という語をどういうふうに解釈したらいいのか難しいところではあるのだが、人間は、自分が生まれた土地、故郷というものがないと生きていけない。われわれは宇宙に住むわけにはいかないし、地球の大地に根ざして生きていくしかないのであるという覚悟と自分の故郷に対する愛着のことであろうと思うのだ。今、われわれが立っているこの土地、住んでいるこの街、そして自分の身近な人々。家族、友人、新しく知り合って親しくなった人たち、こういう人々に囲まれてわれわれは生活をしているし、それ以外に世界は存在しない。自分を取り巻くこの環境のなかに自分の人生もあるのだ、と悟ったときに、その大切さとかけがえのない現在が輝きだすのではないだろうか。こういうふうに考えると、ミランがなぜ身近な人しか描かなかったのかという理由も見えてくるだろう。
前述したベオグラードで、われわれはミランといっしょに作品の設営をし、食事をし、酒を飲み、笑い、そして親しくなった。親しくなったわれわれの姿を彼は鉛筆でスケッチした。ミランが誰かを描くということは、その人を彼がよく理解し、知ったという証拠でもあるのだ。
ミランの描く肖像は、単なる似姿ではなく、映画の一シーンのような、何かこれから起こりそうな雰囲気や、何かが起こってしまった後のような舞台といった趣が感じられる。そして、その顔は、その人のくぐり抜けてきた過去がすべて現われているような表情を見せるのである。
「その絵の中には、以前あったことを何もかも残らずあらわしていなくちゃいけないんです。」 (ドストエフスキー 『白痴』)
〈技術〉
ベオグラードでの思い出をもう一つ書かせてもらう。ある晩、ミランはわたしたちをとあるジャズバーに誘った。人気のバーらしく、観客で混み合っていた。バーの壁にはミランの絵が何点も飾ってあった。予約を入れておいたようで、わたしたちは、バンドの目の前の席に案内されて、ビールを飲みながら演奏が始まるのを待っていた。
ミランは、ワインを飲みながら、かばんからスケッチブックと鉛筆を出した。バンドのメンバーが定位置につき、ライトがスポットだけになり、ステージ以外は暗くなると、すぐに演奏が始まった。ドラムやギターやトランペットの音を聴きながら、わたしたちはそのリズムに身を任せていたのだが、ミランは忙しく鉛筆を走らせていた。5分ほど経ったときに、彼はスケッチブックから今描いたばかりのスケッチを、びりびりとはがし取り、
「はい、ヨシオカ」
と言ってわたしにに渡すのだった。そこにはぼうっと演奏を聴いているわたしの横顔が、鉛筆の線描と最小限の陰影をつけて描かれていた。バックには演奏をするトロンボーン奏者やピアニストまで描き込まれている。暗闇の中で、こんな短いあいだに描ききってしまうその技量にわたしは圧倒された。
確かな線描という言い方では表現しきれない、躍動する線がそこにはあったのだ。ミランのスケッチは、対象を驚くほど少ない線で捉えてしまう。その線には迷いがない分だけ、わたしたちの目を通過して、心にまで突き刺さってくるのだ。ミランのスケッチやドローイングを見ると、わたしたちの背筋がピンと伸びる。なんというスリリングな線なのだろう。見るたびに新鮮な驚きを覚える。
ミラン・トゥーツォヴィッチがタブロー(油絵)の制作にとりかかるときは、まず鉛筆によるスケッチから始める。モチーフの人物や、背景とそこに置かれるモノたちをその特徴を捉えながら描き、構想を練っていく。スケッチの次には、水彩絵具で彩色し、色彩を確認する。そしてそれを元にまず小サイズの画面に油絵を描いていく。それが仕上がったあとで、ようやく大きなサイズのキャンバスにとりかかる。非常にオーソドックスな方法である。そして、スケッチ、水彩、小品も、それぞれに違った味わいの魅力を備えているのだ。
ミランの油絵は、制作方法がオーソドックスなだけではなく、技法的な面でも古典的である。伝統的な方法と、セピア色の画面を見ると、一見、古いタイプの絵なのかな?と思ってしまうのだが、その表面上の古典主義とは裏腹に、そのメッセージは現代そのものと言えよう。描かれた人物とその表情、熟慮の結果構成された画面全体からは、現代のわれわれが背負っている宿命といったものが仄見えてくるのだ。
絵画は、ルネサンス以降、バロックをくぐりぬけ、印象派からキュビスム、シュルレアリスム、抽象表現主義など、さまざまな「流派」がめまぐるしく変遷してきたが、ミランは、それらを逆方向に辿り、「進む」ことで、今のような古典的な技法に至ったのではないかと思う。彼は驚くほど現代美術に精通しているのだ。
上記の 「2+2」 展で、ミランは興味深い作品を発表した。それは 「リーリャ・ブリーク」 と題された3枚一組の肖像画である。縦が80cm、横170cmの箱型の作品で、厚みが30cmある。これが、四角柱の柱の形をした鉄枠の上に乗っているのである。3人の肖像は、それぞれ「マヤコフスキー」、「オシップ・ブリーク」、「リーリャ・ブリーク」である。マヤコフスキーはロシアの詩人。オシップは、文芸評論家で、リーリャはその妻。3人はいわゆる三角関係にあった。リーリャは女優であったが、その肖像は晩年のもので、皺の刻まれた皮膚と悲しみをたたえた目が印象的である。
ミランは3人のことを詳しく調べてそれぞれの肖像を描いた。箱の裏にも描いているので、それぞれ2枚ずつの肖像画になっている。絵はほぼ正方形なので、両脇にスペースができているが、そこには、何やら木材で作った工作がはめ込まれている。これは明らかにロシア構成主義の抽象彫刻を模したものである。この抽象彫刻もミランが作った。資料を徹底して調べ上げたことが、作品の隅々から伝わってくるのである。大学時代は彫刻専攻だった彼には、彫刻はお手のものである。
もう一つ指摘しておかなければならないのは、ミランの油彩のタッチである。ミランの絵画は、絵具を塗り重ねて、厚い層を作っているように見えるのだが、近づいてみると、それは驚くほどの薄塗りで、タッチの数も少ない。ドローイングや水彩画で見られるような最小の線描、着彩と共通しているのである。わたしは彼の絵は古典的だと書いたが、それはルネサンスの絵画に見られるような、絵具を幾重にも塗り重ねて、タッチを消した滑らかな肌合いではなく、荒いともいえるような筆使いで、対象の本質を捉えようとする情熱に溢れた画面なのである。ミラン・トゥーツォヴィッチは、ゴヤからドラクロワ、マネと続くタッチを駆使する画家の系譜に属しているのだ。
〈テーマ〉
ミランの描く絵はすべて人物であるとわたしは書いたが、そして人物の物語を作り上げるのであるとも言ったわけだが、ミランの作品の画面は、人物だけで満たされているわけではない。人物の後ろには背景があり、その空間のなかには、さまざまな風景や建物や動物なども描き込まれていて、全体として複雑な構造をもっていることも見逃してはならないだろう。
ミランは、人物を描くときは、その人物の居る空間をそのまま描くということはしない。人物と背景が別々に描かれるのだ。緻密な構想のもとに、用意した「小道具」を組み合わせて実在の空間とは別次元の情景を作り出す。そして、その中に人物を配するのである。ミランの肖像画はその人の「歴史」を伝えてくるのだが、その表情は背景と相俟って衝撃的とも言える状況を作り出すのだ。日常の普通の風景を描いているようでいて、それはほとんどシュルレアリスムと言ってもいいような異様な場面なのだ。ミランの肖像は、数少ない例外を除いて、すべての顔が正面を向いている。そして、じっとこちらを見つめているのである。
後姿や横顔を描かない画家といえば、アンリ・ルソーを思い浮かべるのだが、彼の場合は、顔は正面なのであり、正面を向かない顔は意味がないと思ったのであろうと推測されるのだが、正面から見た顔でしか表現できないメッセージがあったのだと考えるのが妥当であるとわたしは思う。
正面を向いた顔と、奇妙な背景はそれだけで強烈なメッセージを伝えてくる。一言で奇妙な風景と言ってしまったが、それは、気が遠くなりそうな深い空間であり、見ているわたしたちはその中に吸い込まれていき、出て来れなくなってしまいそうな、怖い空間でもある。その奥行きの先には絶望に似た暗闇がうごめいている。
それにしてもミランの描く人物はみな一様に、思いつめたようにこちらを見つめてくる。これらの人物たちは、いったい何者なのであろうか。ミランのよく知った人たちばかりであるはずなのだが、その背負っている背景と時間とは、わたしたちを遥か遠いところへ連れ出そうとするのである。彼らの視線はわたしたちの人生を刺し貫く。わたしたちが絵を見ているのではなく、わたしたちが絵の中の人物に見つめられているのである。前述した 「床屋に訪れたお客さんたち」 の9点の中心に据えられた 「鏡」 が唐突にわたしたちの視線をはね返すように、わたしたちは見ているのではなく、見られているのだということを気づかせてくれる。これらの人たちは何者なのであるか、という問いを発する前に、「君こそいったい何者なのか」 と問われているのである。
聞くところによると、ミランはローマ法王の肖像画を描くように依頼されていて、法王庁からは額が送られて来ていたそうだが、法王を描く前に彼は遠いところへ行ってしまった。
もし、ミラン・トゥーツォヴィッチがローマ法王の肖像画を描いていたら、絵の中の法王は、どんなふうにわたしたちを見つめ返してきただろうか、と想像してしまうのだ。
テーマについて書くつもりで、長々と書いてしまったが、じつは彼の作品のテーマのまわりをぐるぐる回っていて、核心に近づいてこないのだが、それはミランのメッセージが、いろいろな要素が複雑に絡まりあって、一言で表すことが困難であるからである。
絵の中の人物というのは、中世から現代にかけて、みんなまじめな顔をしていて、笑ったり泣いたりして、感情を露わにしているものは少ないのであるが、それにしてもミランの描く人物は一様に押し黙ったまま、何かを訴えかけるようにこちらを見ているものばかりである。その表情こそが、彼の描きたいものであるとするならば、わたしたちは、それを読み取ることが求められているということだろう。
① 自分の人生をそのまま受諾すること。
② ここに存在するという偶然、あるいは必然を肯定すること。
③不条理と悲しみの中にあっても生きていくという覚悟。
これが、ミランの絵の登場人物から伺えるわたしの印象である。
そして、彼の制作を動機づける要因として、
①人間に対する素朴な、どうしようもない愛着。
②宇宙の中に、存在していることの驚愕と恐怖。
③人間と、そこに畳み込まれている物語に対する興味。
を挙げておきたいと思う。
2019年8月2日(金) ベオグラード
前の晩、ワインを飲んで寝た後、朝、娘さんが起こしにいったら、ベッドの中で亡くなっていた。
心筋梗塞だったとのこと。
亡くなったミランの手に、娘さんは日本の円を握らせてあげたそうである。
また日本に行けるように。
享年53歳。
ミランの描く絵画の発するメッセージは、これからますます重要性を帯びてくるだろう。
「亡くなった友人にたいしては、悲嘆によってではなく、追想によって、共感を寄せようではないか。」 (エピクロス)
よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery代表 2020年2月