保育園のころ、望月久也のことを好きだという同じクラスの女の子がいたそうである。ある日、先生がその子に、どうしてひさやくんのことが好きなの?と訊くと、その子は
「えがじょうずだから」
と答えたそうである。50数年経った今でもそのことを覚えているというのは、心のどこかでその言葉に励まされてきたということなのかもしれない。そしてひさやくんは彫刻を作り続けている。
以前の個展のときに、「形を作っちゃダメなんだよね」 とつぶやいて、何かを悟った様子を見せていた望月久也だったが、今回の個展(2020年 10月26日(月)-11月7日(土) Steps Gallery/東京)では、さらに先へ進み、「作らない」とはどういうことなのか、それを実作で示してくれている。
「作らない」というのは、もちろん手を加えないとか、技術的に凝らないという意味ではない。作業という点から見ると、思い切り作り込んでいるとさえ言えるだろう。
今回の展示作品は、「昇 ’20」、「降 ’20」というタイトルの2作だけである。非常にシンプルな構造をもった幾何学形態である。長さ180cmの三角柱が3本組み合わさっている。三角柱の断面は、二等辺三角形で、それぞれの角度が45°、45°、90°で、三角定規と同じ比率である。柱の2本は連結されていて、横から見ると山が二つ並んでいるように見える。山と山の間の峡谷に、3本目の柱が逆三角形に向きを変えて置かれる。文字通り、置かれているだけで、接続はしていない。表面がメタリックな色合いなので、一見金属に見えるが、これは木で出来ている。「昇 ’20」の方は、上に載った柱が、両端それぞれが上方に反っていて、緩やかなカーブを美しく描いている。「降 ’20」の方は逆に下の角柱2本が、下方向に反っていて、それだけで全く違った印象になっている。
美術家の岡崎乾二郎は、その著書『抽象の力』のなかで、抽象というものを大胆に定義している。
「抽象とは運動である」
というのがそれであるが、字義通りに受け取ってよいものかどうか戸惑う。さらに岡崎は
「抽象は肌触りである」
とも言う。言葉だけを読むとその意味を把握するのは簡単ではないのだが、われわれは具体的な作品を参照することで納得するしかないだろう。
望月久也の今回の「昇 ’20」と「降 ’20」はその好例になるだろう。
「昇 ’20」の天に上昇していく動きと、「降 ’20」の地下に降りていこうとする力は、その彫刻的形態を脱ぎ去って、運動だけに収斂していく。作品の表面は、鉄のような冷たいざらつきを見せながら、われわれを「触ってごらん」と誘惑する。
一見すると、金属彫刻のように見える二つの作品は、じつは木の板で作られていること、さらに金属的な色合いの塗料を上に塗り、木という素材感を消してしまっているということで、われわれの目を二重に裏切りながら、新しい存在感を獲得している。われわれが今見ているのは、緩やかな曲面をもった量塊ではなく、昇・降という運動であり、その動きを支える物質感である。動きという、そのものが抽象的である概念は、全く逆に、具体的な物質という要素に支えられて初めてその意味に肉づけがなされるのである。
彫刻とは、そもそも「形」を追求するものではなかったか。望月は今まで、彫刻、立体という形を作ることにそのエネルギーを傾注してきた。シャープでかっこいい形。有機的で面白い形体。みんなが驚くような奇抜な見え方。
しかし、彫刻とは、形を追求するのではなく、形を使って思いを伝えるものなのであり、造形することにとらわれてはならない、と望月はようやく気がついたのであった。
良い形を作ろうとすると、良い形はできない。禅問答のようであるが、「形を作っちゃダメ」とはそういうことなのである。良い形を作ることが彫刻の目的ではないのである。それが良い形かどうか判断するのは鑑賞者であって、制作者ではない。作家には「作る」ことではなく、ただ「思う」ことが求められる。
ひさやくんのことが好きだった保育園の女の子は、現在のこの望月作品を見たら、何と言うだろう。
2020年11月
(よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery 代表)