Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

わたしは誰 - 甲斐千香子のイメージ連射

それぞれ繋がりのないイメージがランダムに散らばっている画面。

パソコンとその机上、バラの花、観覧車、アニメのキャラクターのような少女、焼き鳥とスマートフォン、思い出の写真、ジェットコースターに乗っている動物、打ち捨てられた骨……

「かさねがさね」と題された今回の甲斐千香子の個展(2021年8月23日(月)-28日(土)/Steps Gallery・東京)で、彼女は「かさなる部屋」という80×400㎝ほどの大作の中に上記のようなスナップショットイメージを描いた。甲斐自身は、「空間を増やしていく行為」と説明しているが、とりとめのないイメージの連なりは、その親近感を覚える内容にもかかわらず、わたしたちを異世界に引き込んでいくのはなぜだろう。とりとめのない、という自由連想にも近いこの甲斐の方法は、さまざまなイメージがランダムに現れる夢と同じ効果を持っている。

下絵も描かず、思いついたままにイメージを拡げていくこの方法は、シュルレアリズムの自動筆記とも共通しているかもしれない。

「整理」されていない画面というものは、ひょっとしたら、わたしたちの頭の中の混沌を覗いているようで、そのへんの整理されない様子がわたしたちを引きつけるのではないだろうか。

哲学者の井筒俊彦は、われわれが意識の流れを作り、思考するとき、言葉を使っているように思っているが、じつは言葉ではなく、まず頭の中にイメージがあるのだ、と言う。イメージを操作することでわれわれは考え、そのあとで言葉に変えていくのだ。わたしたちの頭の中は、整理されていないイメージでいつも溢れていて、それが思想になるのを待っている。

わたしたちはいつも何を考えて生きているのだろうか。特に何も考えないで生きていくこともできるだろうが、全く何も考えないで生きていくこともそれはそれで大変なことかもしれない。甲斐の頭の中のイメージを見ることで、では、それを見ているわれわれは何を考えているのだろうと自問する。そしてわたしは誰?という難問と向き合うことになるのだ。

甲斐の描くそれぞれの「場面」はそこに何が描かれているのかを探していく楽しみを見るものに与えてくれるが、単なる絵解きだけではなく、絵解きという言葉から離れたところにある、絵画そのものの美しさも忘れてはならないだろう。

批評家のロベルト・ロンギは、絵画は説明図であってはならず、色と形だけで評価しなければならないと言っているが、それは突き詰めると、絵画を抽象として見る、ということである。どんな具体的な物を描いていても、抽象として見て、それが作品として成立していなければ、絵画と呼ぶことはできない、と力説するのである。

甲斐千香子の画面を「抽象」として見てみると、抑えた色調と形のリズムが、まるでセザンヌの作品を前にしているような新たな画面が立ち現れてくるのを目撃することになる。描かれたモチーフと、抽象としての力を備えた豊かな画面は見ていて飽きない。

今回の作品で、ある部分が私わたしたちの目を引くかもしれない。金色の「つぶつぶ」が画面にちりばめられていて、照明の光で、きらきら輝いて見える。描かれた場面と場面を区切る境界線上に多数置かれているのだが、それは妙に盛り上がっており、描かれたというよりは置かれたと言ったほうがいいような物質性を備えている。それは2次元空間から3次元空間に我々を引き戻し、見ていた夢から目覚めさせてくれる効果を発揮いるように思える。

同時に出品されている「石」と「鉱」のシリーズでも、メディムを使ったこの立体のアクセントは、強烈な印象を残しながら、架空と現実を仲介している。

「ピザ石」、「クマノクッキー鉱」などのタイトルをもつこの奇妙なシリーズは、現在の地表が噴火などで埋もれてしまったら、何万年か何億年後かに発掘されるであろう化石を描いている。甲斐の想像は、とりとめなく突き進んでいく。どこまでいくのやら…。

2021年8月23日

(よしおかまさみ/Steps Gallery 代表)

03-6228-6195