一色映理子の新作である。
全面ガラスの引き戸にカーテンが掛けられていて外の風景は見えないのだが、明るい光が差し込んでいるので天気がいいことがわかる。薄いカーテンの陰にかくれている小さな人物像が透けて見える。一色のお嬢さんである。立っているので、1歳は過ぎているのだろうか。熱心に外を見ている様子である。カーテンが少し揺らめいているのは、この子がカーテンの裏に入り込んだばかりなのか、あるいはガラス戸が少し開いていて、風が吹き込んでいるのか、定かではない。なんでもない日常の一コマなのだが、見ていて飽きないのは何故だろう。
才能のある小説家なら、この絵一枚から短編を一つ生み出すことができるだろう。
たとえばこんなふうに。
母親が台所で包丁を使っている。昼ごはんのオニオンスープ用の玉葱を刻んでいるところだ。子供は隣の部屋で眠っている。スープの下ごしらえが終わって隣の部屋をふと見ると、娘の姿が見えない。あら、どこに行ったんだろう?と急いで隣の部屋に行ってみると、カーテンの向こうに居るのを見つけ声をかける。「どうしたの?」と言いながらカーテンを捲ってみると外の光が眩しく目を射してくる。子どもが「おかあさん?」と言って振り返った瞬間、「おかあさん?」と言っているその声が自分のものであることに気がつく。ああ、私は子どもだったんだ、と驚きながらも、不思議に納得してしまう。
とまあ、こんなふうな書き出しではどうだろう。これはわたし個人の思いつきでしかないが、人によってさまざまなシチュエーションが思い浮かぶことだろう。
一色映理子の作品の中には、頻繁にカーテンが出てくる。それはたいてい風に揺らめいて緩やかな曲線を描く。外の風景が描かれることはなく、風といっしょに外光をはらんで眩しく光っている。それは、窓やカーテンによって濾過された光であり、眩しくはあるが、どこか物憂いやさしさのような波長を帯びている。
しかし、今回の作品には、子どもの目を通して見た別の光が内包されている。絵画の画面上には登場してこないが、カーテンの向こうに子供を描くことによって、われわれは、子どもの目に映った光景を想像することになるのだ。画面上に現れないのだが、確かに私たちは「外の光」を「見ている」のだ。一色がこの作品に「One More Light/もう一つの光」というタイトルをつけた理由はそこにあるのかもしれない。
この子はいったい何を見ているのだろうか。
(2023年1月)