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ステップスギャラリー 銀座

一色映理子の記憶 -first place-

蒸しむしする雨の日だった。日本橋の高島屋に一色映理子の作品を見に行った。第10回「前田寛治大賞展」(2018年8月8日-14日/日本橋高島屋6階画廊)に出品している。28名の作家が、それぞれ大作を1点ずつ飾っている。案内状の説明によると「この賞の目的は、前田の画論や作品に顕現された新写実主義を受け、現代における写実主義の新たなる展開や可能性を探ることにあります。」とあり、さらに「現代における写実主義を志向する若手作家を推薦委員により選抜していただく指名応募制」であると書かれている。

一色はこの展覧会に出品できることを歓びながらも、ちょっと迷っていることを明かした。

「私は写実を目指しているわけではないし…」

と言うのだが、せっかく推薦してもらったんだから、出品していろいろな人に作品を見てもらうのは有意義なのではないかとわたしは言った。

会場に入ると、「写実」を目指す作品がずらっと並んでいて、どの絵も圧倒的な技術と画面の工夫により、レベルの高い展覧会になっていた。わたしはひと通り会場をまわったあとで、一色の作品の前で立ち止まる。

見ようによっては、一色の作品は「写実」である。対象とその周囲のあるものを丹念に写していくという点では確かに写実と言えるのだが、他の作品群と比べると何かが違っているのに気づく。写実主義の絵画は、そこに何が描いてあるのか、一目でわかるし、写実的に描いてあるわけだから、観るほうは、特に先入観も知識もなしに画面を楽しむことが出来るのである。しかし、一色の絵画は、他の作品とは違って、何が描いてあるかとっさにはわからないのである。画面が白く光っていて、その明るい光の中に、人物のような黒い影が見えるだけである。彼女の絵画作品の多くはその画面が光っていて眩しい。蛍光塗料を使っているわけでもなく、ただ油絵具で普通に描写しているだけなのに、なぜか非常に眩しく感じるのである。しばらく画面を見ていると、そこに描かれているのは、部屋の中に座っている老齢の男性だということがわかる。この人物は一色の祖父である。窓を背景にして横向きに座っている。座卓が前に置かれていて、その滑らかな平面には、祖父の姿が逆さまに映っている。窓には白いカーテンが揺らいでいる。さらに見続けると、描かれた図像は、シルエットと光のなかに飲み込まれてしまい、光だけが残像としてわたしたちの網膜に焼き付けられる。

高島屋を出ると、雨は降り続いていて空はどんよりとした灰色だった。傘を差して歩きながら、わたしは、フランシス・ベイコンがインタヴューに答えてこんなことを言っている一節を思い出した(デイヴィッド・シルヴェスター『フランシス・ベイコン・インタヴュー』 ちくま学芸文庫)。インタヴュアーがベイコンに写実について尋ねる場面である。

「写実的な絵(イラストレイション)とそうでないものの違いを定義してもらえませんか。」

「思うに、写実的な絵(イラストレイション)は、描かれているフォルムが何なのかを知性を通して直接的に伝えますが、一方、非写実的な絵はまず感覚に作用し、それからゆっくりじわじわと現実に戻っていくのです。」

一色の絵画は、ベイコンが言うところの「非写実的な絵」ではなかろうか。

ベイコンは続けて言う。

「どうしてそうなるのかは、わかりません。現実自体が非常に曖昧であり、姿かたちも実はたいへん曖昧なのだ、ということに関係があるのかもしれません。だから、非写実的で曖昧な記録のほうが現実に近づけるのでしょう。」

一色は、ずっと祖父母の姿を描いてきた。愛媛の実家に帰り、祖母の世話をしながら、そのかたわら二人の姿を描いてきたわけである。と、書くとなんでもないことのようであるが、よく考えてみて、自分なら出来るかと自らに問うてみれば、それは「無理」というしかないだろう。まず介護しながら作品を作るということは実際には不可能に近い。また、自分の身内を描くというのは、気持ちの面でかなりの覚悟がいるはずである。一色が選んだ「祖父母を描く」という行為が並々ならないエネルギーを要することであるのは、ちょっと想像してみれば容易に察しがつくはずである。さらに注目すべきは、その表現方法である。ひとことで言うなら「対象を光の中に置く」という描き方である。人物であろうが風景であろうが、それが見えるということは、光の中にあるということである、ということは物理学者でなくてもわかることであるが、一色の描く光は、ものを照射してその色や形を浮かび上がらせる働きをするものではない。光は対象物を包み込んで、浮かび上がらせるどころか、その形と存在をぼかしてしまっているのである。祖父母を描く場合、二人は部屋の中に居て、静かに座っていたり、横になっていたり、あるいは抱き合っていたりする。部屋には窓から外光が強烈に差し込んでいて、部屋全体を満たしている。眩しい光は情景をロマンティックに彩ったりすることもあるし、それは美しいという言葉で表しても差し支えはないのであるが、わたしにはそういうふうには見えないということを強調させてもらいたい。光は予期せぬ闖入者として、窓から暴力的に襲いかかっているようにも見えるのである。祖父母は光の攻撃にただ耐えている姿に見えてしょうがない。光は優しさであると同時に凶暴性も備えていると感じてしまうのだ。

一色は、光を捉え、自分の中で、優しさと暴力性の象徴としてのこの眩しさを画面に定着しながら、光を飼いならし、時間を、人生のかけがえのない瞬間を表す手段として、美しく変化させる。

それにしても、一色の描く光は、なぜこんなに眩しいのだろうか。

この彼女の光の秘密を解き明かすべく、わたしはこの論考を始めたのだが、うまくいくかどうかわからない。

彼女は祖父母の姿のない部屋も描いている。そこには窓があり、窓にはカーテンが掛けられ、風になびいている。座卓があり、光沢を帯びたその面に部屋が映っている。ここでも光は容赦なく入り込んできているのだが、照射すべき対象を失った光は、部屋の中をたゆたいながら、優しさなのか、攻撃性なのかわからない姿を晒しているばかりである。

最新作の「first place」では同様に、リビングルームと思われる部屋を描いているのだが、やはりそこには人物は登場しない。十畳?二十畳?広い空間である。奥に全面ガラスの引き戸があり、厚いカーテンが掛けられている。カーテンが開いたところは白いレースのカーテンが覆っている。強い光が差し込み、床面には光と影が道を描いている。左の壁面には出窓があり、やはりそこからも白い光が入り込んで、植木鉢と見られる器状のものを照らし出している。じつは、今わたしがこれを書いている時点では、作品は未完成なので、細部の様子がはっきりとは分からないのだ。一色は作品の途中経過の画像を送ってきたので、それを見ながら書いているのである。画面の左手前には大きな楕円形のテーブルが置かれていて、椅子が五脚見えるが、画面から切れてしまっている部分があり、そこにも一脚あると想像できる。全部で六脚である。椅子がいくつあろうが、どうでもいいことのようにも思えるが、そこに座るであろう人のことを考えると、椅子の数はなにかを伝えてくるはずである。

一色のこのリビングルームは、2歳から10歳までに過ごした神戸の自宅だそうである。このなんでもない部屋が、光を受けて、異様な緊張感に包まれた空間になっているのは驚くべきことである。しかもこの絵はこれから仕上げにかかることになる未完成の作品なのである。わたしは、これがこのまま未完成のままでもいいのではないかと思った。それは、私たちの想像力を刺激して、一色とは別の物語をそこに付与していくことになるからである。彼女が、これをどのように完成させていくのか楽しみであるし、2019年に発表することになる個展でわれわれはそれを見ることになる。

それにしても、この「first place」の不思議としか言いようのない空気感はどこかから来るのであろうか。それは一色の個人的な記憶に関わることであるし、そこに込められた思い出や経験の堆積としての記憶が私たち自身の記憶のどこかを刺激するからであろうと思われる。

田舎や故郷のある人は、自分の幼少期を過ごした場所に帰ると、懐かしさとともに言い知れない安堵感を覚えるものである。ああ、田舎は相変わらず私たちの記憶にあるままの姿でいてくれる。「ふるさとの山はありがたきかな」なのである。私たちは、このふるさとの山を忘れないでいて、今も生きていることを感謝するのだが、そのときに、こう思ったことはないだろうか。

この山はわたしを憶えていてくれた。

わたしが山を憶えているのではなく、山がわたしを憶えているのだ。

場所には記憶があると言ったのはコリン・ウィルソンだったろうか。それは比喩として言ったのではなく、実際に場所は人や事件を記憶しているというのだ。もちろん科学的な見地からいったら、場所が記憶を持っているはずはないのだが、「ふるさとの山に向かひて言うことなし」と言うときのわたしたちは、「僕はこの山のことを憶えているし、ずっと忘れない」という気持ちだけでなく、逆に山のほうが「お前のことは憶えているよ」と言ってくれているような気がする、あの気持ちは、山には記憶があるという擬人法で語る以上のものがあると信じるからだ。

一色の描くリビングルームも、一色のことは忘れないだろうし、ここで8年間過ごした彼女の時間を記憶しているはずなのである。

つけ加えておくが、この、記憶を基にした作品が、私たちの琴線に触れ、心を揺り動かすのは、一色が、明確なテーマをもち、卓抜した技量を駆使し、それを覚悟をもって表現しているからであって、「気分」だけで描いているわけではないことを知る必要がある。そういう意味では、一色の描く「眩しい」光は、単なる「工夫」ではなく、彼女独特の「技術」なのかもしれないし、「眩しい光」でしか表すことのできない時間が存在するということなのかも知れない。

「first place」に関しての一色からのメールには、こう書かれてあった。

「物心つく前からこのカーテンの前で光に包まれながら、空中に舞う塵をずっと目で追っていた記憶が、一番最初の記憶としてあります。私の原点の光の場所です。」

一色が幼少期を過ごしたこのリビングルームに、どんな思い出があるか私たちは知らない。そこには、楽しいことだけではなく、辛い経験や痛みを伴う時間もあったのかも知れない。しかし、彼女はそこに光を当てることで、記憶を確認していく。一色の記憶と、場所の記憶。その二つをつなぐための光なのであると理解することで、一色の作品は私たちに近づいてくるだろう。

「私にとって、光は、透明な生命を包むものであり、畏れ敬うような膨大なエネルギーでもあります。それを幼児の頃からカーテン越しに光合成しながら感じていたように思います。」

(よしおか まさみ/美術家・Steps Gallery 代表 2019年1月)

03-6228-6195