吉岡まさみ
〈予備校時代〉
午前中の3時間は木炭や鉛筆を使ったデッサン。人体や静物を描く。午後の3時間は、やはり人体や静物をモチーフに油絵を制作する。これを月曜日から金曜日の5日間で仕上げる。土曜日は全生徒の作品を並べての講評会が待っている。これが1年間続く。
1976年、わたしは大学受験のための美術予備校「東横美術研究所」に入った。山形から出て来てアパートで独り暮らしをしていた田舎少年にとって、自由が丘という都会の真ん中にあるこの学校では緊張のし通しだった。
ある土曜日の午後、例によって作品の講評会が行われた。でき上がった作品は、イーゼルに載せて並べられるのだが、作品には点数がつけられて、その順番に置き換えられていく。誰が一番で、誰が最下位か、一目瞭然なのだった。厳しいのである。わたしはいつも下から数えた方が早い位置を占めることになった。
先生がなかなか成績の上がらない女生徒に厳しい指導をした。
「お前、明日から来なくていいから。どんなに頑張っても才能ないんだからさ、来るだけ無駄だ」
女生徒は大泣きしながら、こう言うのだった。
「来ます!」
先生はこうやって鍛えるのだ。なんだかいい時代だったような気がする。
こういうシビアな講評会で、いつもトップを走っていたのが永野のり子だった(旧姓は津田)。デッサンも油絵も文句なく上手かった彼女は、下位の学生だったわたしには眩しい存在だった。
生徒数がわりと多かったので、全員と親しくなるということはなかったと思うのだが、数人とは話をしていたはずである。永野とも言葉を交わしていたと思う。
1年後の受験では、わたしは芸大を落ちた。次に受けた学芸大学は運よく合格したので、指導教官だった佐藤全孝先生には、
「もう一年ここでがんばったら芸大に入れてやる」
と言われたのだが、もう1年浪人というのは嫌だったので、学芸大学に行くことに決めた。
永野のり子も芸大を落ちて、多摩美大に行くことにしたらしい。2浪は嫌だったようだ。
〈最初の展覧会〉
大学に入ってしばらくしたころ、予備校で友達だったU君から連絡があった。
「グループ展やらないか?」
という誘いだった。話をよく聞いてみると、津田のり子と3人でやろう、場所は銀座の画廊で、ということだった。え?銀座?学生の分際で銀座での展覧会というのは畏れ多い。しかも、予備校でトップだった津田のり子が乗ってくる企画だとは思えなかった。
ところが、思いがけなく津田のり子は三人展の話に乗って来た。何回か三人で企画を詰めていった。U君の行きつけらしいバーで話し合いをした。三人展のタイトルを「三匹の猫」にしたいというU君の提案に反対する理由は見つからなかった。ピカソが最初の個展をやったのが、「四匹の猫」というバルセロナのカフェだったことにちなんだものだった。他に何を話したか全く覚えていないのだが、バーで飲んだのはバランタインだったことだけは妙に覚えている。
「三匹の猫展」は滞りなく銀座で開かれた。大学2年生のときだった。生意気な猫たちだったな。
津田のその時の作品は、紙にパステルかクレヨンのようなものを使い、何層にも色を塗り重ねていき、その表面を引っ掻いて波のようなうねりを表現したものだった。
U君は斎藤義重ばりの板を使った作品で、わたしはデカルコマニー作品を展示した。
〈初個展・北京〉
その後、大学を卒業して、津田のり子は神奈川県の高校に美術教師として赴任することになった。教師として忙しい毎日を過ごし、結婚、出産と目まぐるしい生活を潜り抜けたあと、制作に戻り、ようやく初個展を開いたのは、1987年、30歳のときだった。銀座の「ギャラリーなつか」が会場だった。「三匹の猫」から10年近く経っていたわけだが、作品も大きく変化していた。青色を基調とした、抽象的なうねりと空間を走り抜ける動きを表わしたもので、タイトルは「Trace of Wind」のような風にまつわることばが多かった。この風のシリーズを永野は10年以上作り続け、次々と発表していった。
初個展から10年ほど経過したある日、
「今、中国語、勉強してるんだ」
とつぶやく永野に、わたしは、いろんなことに興味を持って挑戦していることに、へえ!と驚いたことを伝えただけだった。しかし、興味を持っていたのは中国語というよりも、水墨画であることがわかった。永野は、研修の一環として、北京中央美術学院に2か月間の短期留学をしたのだった。中央美術学院では水墨画を学んだ。2か月で水墨画の基本をすべて学びきろうと意気込んでいたのだが、学院の水墨画の大家に、
「竹の葉をマスターするだけで10年かかるよ」
と言われたそうだ。それでも永野は、水墨画の何であるかをつかんで来たのだろう。以後、彼女の作風は徐々に変化を遂げていく。留学のために学んだ中国語も身についていた。
2011年、東日本大震災後の6月に、中・韓・日の交流展が開催されることになり、わたしは日本側の作家選定を任せられた。北京の四面空間画廊で開かれたこの展覧会に、わたしは倉重光則、太田三郎、中津川浩章、永野のり子を選んだ。永野は「風」の小品を数点もって行って展示した。われわれは一週間ほど滞在したが、永野の中国語に何回も助けられた。
〈風を描く〉
絵描きに、どうしてこの題材を選んだの?という質問をすると、何がしかのきっかけやエピソードを語ったりするものだが、実は本当の理由は本人にもわからないというのが正直なところだろう。わたし自身、自分がなぜこのモチーフを描いているのか、はっきりしたところはわからないからだ。永野本人に、なぜ風を描くのか、と訊いたことはない。おそらく重要な動機はあるのだが、それは本人にも隠されているのではないか。じゃあ、訊いてみればいいのにとも思うが、なんだか訊かないでおいた方がいいような気がするのだ。
風を描くといっても、風は見えない。普通わたしたちは、木の葉がざわざわと揺れているのを見たり、電信柱の電線が強風で、ビュービュー鳴っているのを聞いたり、頬っぺたに冷たい風を感じたりすることで風の存在を知る。風が何かに当たっているところを描写すれば風を描くことはできるはずだが、永野の場合は、風そのものだけを描こうとしている。
見えないものを描くと、それは必然的に抽象になる。風の流れや勢いといったものを、筆のストロークで表すことになるだろう。
永野の風には勢いがあり、空間を巡って、どこへ流れて行くのか彷徨っている様は、われわれの心もとない人生のようでもある。彼女は人生、生きる意味を探っているのだろうか。しかし、捉えどころのない風は逃げていくばかりだ。
「彼女の身体はまるで風であり、透明な光とエーテルを含んだ風、あるいはぼくの眼差をのせて吹く風。彼女が風だとしたら、彼女が姿を消してしまうのは当然なのか。……
わたしはあなたの前からいなくならないわ。あなたがわたしの全てを知ろうとしないかぎり、わたしたちは一緒よ……」
(金井美恵子 『森のメリュジーヌ』)
永野は風の全てを知ろうとした。
風は消えた。
〈水面へ〉
永野がモチーフを「風」から「水」へ変えていったのは2013年ころのことだ。どういう経緯で「水」が出て来たのか。ただ単に風が「消えた」ということではないだろう。もっと現実的な要因があったと思われる。2010年、彼女は高校教員を早期退職した。作品制作に集中するためである。パートタイム・アーティストからフルタイム・アーティストになった。教員という仕事に行き詰ったわけでも嫌気がさしたわけでもない。それは、個展のたびごとに教え子たちが会場をつぎつぎに訪れることを見ても、教員生活が充実していたことを伺わせるからだ。
時間ができた永野はスケッチに時間を割いた。モチーフは水である。海や川の流れを何枚も描いた。それは、たとえばクールベの描く「海」のような激しい波ではなく、周りの風景を写し込むような穏やかなものであった。
2011年、東日本大震災が起こった。水は暴力として我々の日常生活と心情を大きく変化させた。永野も大きな影響を受けたはずなのだが、スケッチする水は、以前と変わらず穏やかさを保っていた。私事であるが、同じ年にわたしは永野に一年遅れて早期退職をした。退職後にスケッチはしないで、代わりにギャラリーを開設した。当時、永野は、銀座の「ギャラリーなつか」と、横浜の「ギャルリ・パリ」で毎年交互に個展を開いていた。それだけで制作は手いっぱいだったはずなのだが、2012年に、わたしの開いたSteps Galleryで個展を開催し、その後も2年ごとに個展を開いてくれた。予備校の同級生に対する思いやりであろう。3つのギャラリーで個展を続けていくことになったので、早期退職したのに、以前より忙しくなってしまったはずである。2012年の作品は、風から水への移行期にあたるもので、筆触が水平方向に延びている。
この水面は、どこか実際の風景を描いたものなのか、という質問をすると、彼女は、いろんな場所で何枚もスケッチをするが、作品にするときは、それをそのまま写すのではなく、あくまでスケッチは参考であり、制作時はスケッチを見るわけではない、と答える。具体的な風景をもとにしてはいるが、作品は極めて抽象的なのだ。それは心象風景であり、同じ意味で永野が使う青色も抽象なのである。海でも川でもそうなのだが、その色をよく観察してみると、永野の使う美しい青色を発見することは殆どないことに気がつくだろう。実際の水は、濃い藍色だったり、濁った灰色だったり、緑がかっていたりするはずだ。青色は何かを描写しているわけではない。永野の心の中にある色なのだろう。「風」のシリーズでも、風に色などついていないのに、彼女は青を選んだのだ。
永野は2022年のSteps Galleryでの個展に「風を待ちながら」というタイトルをつけた。
「水」を描いた絵に「風」のタイトルである。これはどういうことなのか。
水面は鱗にも似た微細なうねりで覆われているが、対岸の風景の写り込みが消えてしまうほど激しくはない。永野は、この小さな波を一筆一筆細かいタッチで描写していくが、それは一筆ごとに時間を刻んでいるかのようであり、何か願いを込めて祈っているようでもある。この水の上に再び風が吹き込んでくるのはいつになるだろう。
2023年10月