夢の中でなら、わたしたちは空を飛ぶことができる。
空を飛ぶというのは、飛行機やヘリコプターに乗るということではない。ジェットエンジンを身につけ、空中に飛び上がるということでもない。生身の身体が、外から何の力も借りずに、そのままの肉体が空中を遊泳するという意味である。スーパーマンかピーターパンか。それはまさに夢であろう。飛んでいる鳥がうらやましい。
空を飛んでいる気持ちになる映像ならわたしたちはそれを見ることができる。ドローンを使って、上空から山や森を写した動画を思い浮かべればいい。そういった映像が溢れているからこそ、わたしたちは「飛びたい」と思うのである。
わたしたちはなぜ空を飛びたいのか。
槙野央の新しいシリーズ 「空を自由に」 は、男が空を飛んでいる姿を木彫で表現したものだ。
飛行機の翼を真似ているのだろうか、両手を横に大きく伸ばしている。両足は閉じて膝をやや曲げ、つま先も心持ち伸ばしている姿は、なるほど飛行しているのである。白いワイシャツと黒いスラックスに黒い靴を身につけている。サラリーマンのようにも見える。サイズが小さいせいもあるだろうが、顔の造作は省略されていて表情はわからない。荒削りである。
サイズが小さいことと、荒削りで細部が省略されていることには、そこにわたしたちの想像が入り込み、物語性が出てくるという効果がある。
もしもこの飛ぶ男が、実物大で作ってあったらどうだろうか。大きさと重さが加算されたリアルな人体は、ギャラリー内に天井から吊るしたとしても、「自由に」飛んでいるようには見えないはずだ。それは「自由に」とは逆に、「不自由な」格好で、まるで磔刑図のように苦しんでいるように見えはしないだろうか。小さいというのはリアルから抜け出して、自由な物語の世界にわれわれを運んでいく働きがある。それは軽く小さいからこそ可能なのである。
今まで槙野は、日常物を原寸大で作り、彩色し、文字を書き込み、本物そっくりに作って、われわれの日常を再現してきた。それは、本物とは何かという問いかけをしながら、われわれの日常を再認識させる装置として働いてきたはずである。「原寸大」は、われわれを日常の外に連れ出すことはない。
槙野の飛ぶ男のシリーズは、人体を縮小させ、小さくすることによって、われわれがこの男に感情移入させて、いっしょに飛んでいるような気分を味わわせてくれるのである。顔の表情が分からないということも、そこに自分の顔を映し出すことを許してくれる。それは日常からの飛躍である。
最初の問いに戻る。
なぜわれわれは空を飛びたいのか。
いろいろな理由が考えられるし、人によってもそれはまちまちであるだろう。
空が飛べたらすばらしい爽快感を味わうことができて、日常の嫌なことを全部忘れることができそうな気がする。学校の窮屈な環境やいじめ。会社の多忙と人間関係。年齢を重ねることと病気。毎日世知辛い生活を続けているわたしたちにとって、それは一瞬でも辛さを忘れさせてくれるのではないかと思えるのだ。飛ぶことは現実から逃げることである。逃げて何が悪い、と居直ることを許してほしいのである。そして何も考えず、ただ空中を彷徨ってみたいのである。
槙野自身も、「空を自由に」飛びたいと思って、この作品を作ったのに違いない。ただそれだけである。だから、わたしたちは、槙野のこの彫刻を一つ持ち帰って、自分の部屋の天井から吊るして、ぼうっと眺めながら勝手な想像を膨らませるのがいいのだ。それが作品を「わかった」ことになる。飛ぶ男を見るわたしたちの視線は、男の形そのものから次第にその周りの空間に移動する。そこには、部屋の壁や天井ではなく、青く澄み渡った空が拡がっているだろう。わたしたちはそこで「空を自由に」飛びまわるのだ。
槙野の今までの身の回りのものを彫ってリアルに仕上げた作品群と、今回の飛ぶ男のシリーズは彫刻としては、制作方法が全く逆方向に向かっている。今までの作品では、槙野は、ヤクルトや「ごはんですよ」などの形状とその表面に印刷された模様や文字を丹念に写し取ることに興味と集中を傾注しているのだが、飛ぶ男では、それとは全く別の方向性を持って制作していることが伺える。上述したように、大きさは縮小されて、男の姿や顔かたちは省略されて「大雑把」になっているのである。槙野は「飛ぶ男」を作りたかったのではなく、飛んでいる男の周りの空間を表現したいのではないだろうか。今回の個展のタイトルが「飛ぶ男」ではなく「空を自由に」であることは、そういう意味を含んだものであろう。
こうした全く違った制作方法をとることを、一貫性がないとみるか、作家の制作の姿勢に幅があると評価するかについては意見が分かれるところではある。
わたしは、一貫性はいらないと言いたい方なのであるが、みなさんはどう思うのか知りたいところではある。
そもそも、一貫性があると何がいいのだろうか。その理由がわからない。一つのことを極めていくことがいいのであると考えるのは日本人特有の評価の仕方であろうが、一つの方法に執着するというのは、「それしかできない」ということでもあって、煎じ詰めれば「能力がない」ということにもなるのである。一貫して同じ方法で同じような作品を作り続けている作家というのがいるが、それは才能がないだけなのかもしれない。
人間は、様々な顔をもっているのだから、そのときに合わせて、制作方法も変化させていくことができるのが、本当の芸術家なのではないだろうか。
槙野央は、今回の制作方法によって、さらに「自由に」なったように見える。
槙野の作品は、わたしたちを自由な空へ連れて行ってくれるだろう。
(よしおかまさみ/Steps Gallery 代表 2019年9月)