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ステップスギャラリー 銀座

コンセプト論-再考

このあいだ、「コンセプト論」を書いて、印刷して配った(2018年 6月)が、反応がいろいろあって面白かった。特に十河雅典氏からの指摘はとても参考になった。

 十河さんは藝大を卒業したあと、電通に4年間勤めたのだが、その当時、電通ではコンセプトということばをすでに使っていたそうである。十河さんが電通に入社したのは1969年だから、今から50年前である。つまり、電通では少なくとも戦後すぐにはコンセプトということばを現在のような、企画意図という意味で使っていたことになる。

「コンセプトというのは業界用語でね、広告業界でしか通用しないことばだったのよ。クライアントに広告の企画説明するときに、この企画のコンセプトは…って言ってたな」

哲学用語としてのコンセプト、つまり概念、というのとは明らかに違った使い方をしていたというのである。それがいつのまにか一般の人たちに広まってしまって、今のような使い方になってしまったのではないか、ということであった。

「ついでに言うとね、クライアントということばも業界用語で、広告依頼主という意味でしか使ってなかった。いまは仕事を依頼してきた側をひっくるめてクライアントって言うようになってしまった。でも本当は広告を頼んできた人のことを指すのである。プレゼンて言うでしょ?プレゼンテーション、あれもうちの業界でしか使ってなかった」

電通をはじめとする広告業界では、「コンセプトをクライアントにプレゼン」していたわけである。

コンセプトもクライアントもプレゼンテーションも経済用語なのである。

わたしが指摘したような、コンセプトということばの使い方についての論は、それはそれで分かるが、それよりも重大なことがあると十河氏は言う。

コンセプトをプレゼンするのは、いつでもクライアントに対してであり、それは経済活動、つまり商売なのである。お客さんを前にして売り込むのである。

美術大学で、学生に自分の作品の「コンセプト」を「プレゼン」させるというのは、経済のこの構図をそのまま教育の場に持ち込んでいることになるのである。

それってどうなの?

学生の作品は商品ではない。卒業して自分の作品がギャラリーで売り買いされるようになるための事前学習としてのプレゼンであるというふうに説明することももちろん可能ではあるだろうが、そんなことが学生に必要であろうか。卒業してからでも遅くはない。

教育に限らず、スポーツの世界も、芸術の世界も、もはや経済に飲み込まれてしまっていて、「やりにくく」なってしまっているのが現状なのではないだろうか。すべてが消費の対象になってしまっているのである。

わたしはギャラリーという経済活動をやっているので、立場は複雑である。わたしは作家に「ギャラリーは作品を見せるところではなくて、売るところである」とよく言っている。八百屋がキャベツを売るのど同じようにギャラリーは作品を売っているのである。作品を売らないで生活は出来ない。しかし、同時に作品は商品ではないという気持ちもあるのである。難しい。

光は波であるが波ではない、物質であるが同時に波でもある、というのと似ている。

作品はキャベツとは違う。特殊な商品なのである。ただ、作品をあまりにも特別な存在として捉えてしまってもしょうがない。

ギャラリーとしては、商品であって商品ではないというアクロバティックな作品コンセプトを駆使していかなくてはならないだろう。

よしおか まさみ/美術家・Steps Gallery 代表

03-6228-6195