日本大学芸術学部に在籍していた倉重光則は、数人の仲間とグループを作った。大学4年のときではなかったかと倉重は回想する。グループ名は 「APPLE IN SPACE」 という。メンバーは倉重の他に、原口典之、鵜沢明民、菅沼緑の4人である。1960年代後半のことだ。
グループを作って「活動」するくらいだから、みんな最初から仲良しだったのか?と訊くと、そうでもないという答えが返ってきた。大学入学当初は、環境に慣れるのに精一杯で、それぞれが緊張していたし、美術談義を始めるほどの交流もなかったようである。大学4年生になってようやくそれぞれがお互いのことを知るようになり、気を許すことのできる関係になって初めて、みんなで何かやろうという気運が生まれたのだ。
大学4年生というと、卒業を控えて、大学を出たら何をしたらいいのだろうか、就職も考えたほうがいいかもしれない、作家活動もしたい、東京に残るのがいいのだろうか…と心が定まらず、落ち着かない時期であろう。とりあえず何かやっておかなくてはならないという焦りのようなものが、グループ結成を促したのかもしれない。
アップル イン スペースはどんな「活動」をしたのだろうか。
ベニヤ板一枚にAPPLE IN SPACE という文字を大きく書き、カッターで切り抜く。黄色いペンキを一缶とローラーを用意する。ローラーをペンキに浸して、ベニヤ板の上を転がすと、ペンキがくり抜かれた型をくぐり抜けて、文字が鮮やかに転写される。染色の型染めの技法である。カッパ版とも呼ばれる。ステンシルともいう。ベニヤ板、ペンキ、ローラーという三種の神器を携えて、APPLE IN SPACEという結成されたばかりのグループは、都内各所を回って、自分たちのグループ名を「印刷」する作業を開始した。
移動は車である。当時車を所有していた菅沼緑が運転手を引き受けた。「都内各所」とはいったい何処なのだろうか。それはまず、美術館門前の道路、それから美術評論家の家の玄関先、さらに美術作家の家の前である。「都内各所」は10ヶ所20ヶ所ではなく、100ヶ所近くにのぼったようである。人様の家の前に大きなわけのわからない文字を残してくるのだから、大胆不敵である。しかし、こういうことを白昼堂々とやるわけにもいかないわけで、おそらく彼らの行動は暗くなる夕方から深夜にかけて目立たないように行なわれたに違いない。鮮やかな黄色で染め抜かれた「APPLE IN SPACE」の文字は、それぞれの美術関係者をどのように刺激したのだろうか。
そもそも、なぜ彼らはこのような行為を企てたのか。それは「有名になりたい」という単純な、若者らしい盲目的な熱情といっていいだろう。それぞれ美術作家を目指していた彼らは、個人ががんばって有名になるという方法よりも、まず、グループ名を有名にして、そして、APPLE IN SPACEとはいったい誰なんだろう?という疑問と噂を巷に流して、みんなが注目し始めたら、自分たちの正体を明かすというやり方が効果的であると判断したからである。
ところが世の中はそれほど甘くはない。美術館も美術評論家も、これを完全に無視した。犯罪行為すれすれの彼らの行為を警察に通告するでもなく、こんなことが起こっていると美術雑誌に誰かが書くでもなく、有名になるという期待虚しく、数ヶ月間に及んだ彼らの活動は水泡に帰した。
何人かの評論家の間でこのような会話が交わされたという噂が伝説として残っただけであった。
「君のところには APPLE IN SPACEは来たか?」
「いえ、来ませんでした」
「そうか、それは残念だったね。APPLE IN SPACEは有名な評論家のところにしか来ないそうだよ。」
APPLE IN SPACEのこの活動を、青春時代の懐かしいエピソードと捉えて楽しく思い描くこともできるであろうし、若気の至り的なコメディーとして笑って済ますことも可能である。確かに、勢いだけで進めた感のある彼らの企図は功を奏すことなく消えてしまったが、彼らをこのような行為に駆り立てた情熱とエネルギーは失われることなく、そのまま各作家の体内に蓄積され、時間を経るにつれて、大きく炎をあげることになるのは、彼らのその後の制作と発表歴を辿っていけば一目瞭然である。傍目には意味のない、無駄骨にも思えるこれらの活動は、じつは、その後の彼らの心に計り知れない情熱を注ぎ込んだのだ。
1968年の日比谷画廊、村松画廊、1970年のアメリカ文化センターでの3回のグループ展を終えると、APPLE IN SPACEは解散した。
〈光〉
さて、APPLE IN SPACE のメンバーはその後、それぞれ自分の表現を求めて作品を発表していくことになるわけだが、倉重光則はギャラリーでの個展を中心に活動を開始する。
最初の個展は東京の村松画廊で1968年に行なわれた、「電球のオブジェ」と題されたものだった。この個展では、巨大な電球のかたちをビニールで作り、バルーン状にし、それをそのまま、画廊に置いた。その後の個展では蛍光灯を使用し、実際の光を置くという方法を取ることになるのだが、ここでは光をオブジェ、つまりモノとして扱っていたのである。蛍光灯は、光によって周りを照らして「見える」ようにするためのものだが、彼は、その光をただそこに在るだけのモノとして床に配置したのだ。
倉重は光について、天井の蛍光灯を新聞紙を敷きつめた床に置いてみたら、光が強すぎて新聞紙の文字が読めなくなったと、いろいろなところで言ったり書いたりしているが、その経験は光の「発見」と呼んでもいいものだろう。ものを見えるようにする光が、逆にものを見えなくしてしまうという発見である。
倉重が作品を発表し始めた1960年代後半から1970年代にかけての美術界は、のちに「もの派」と呼ばれるようになる若手作家が活躍し始める時期である。倉重の光も、もの派のいうモノと同じなのだろうか。どうなの?とストレートに訊いてみると、いや関係はない、ときっぱり否定するのだが、もの派の作家たちを意識しないで作品を作り、発表するということは考えにくい。意識したからこそもの派とは一定の距離を置いて遠くから見ていたというほうが正しいだろう。もの派を知ったことで、逆に自分の使う光はもの派とは違うということを改めて強く意識することができるようになったとも言える。APPLE IN SPACE のメンバーの一人である原口典之が、もの派と接近しながら作品を作っていったことも影響しているかもしれない。原口は後にもの派の代表的な作家とみなされるようになり、傑作 「オイルプール」 を発表することになる。ひょっとしたら原口に対するライバル意識のようなものもあったのかもしれない。
倉重の使う光は、もの派となにが、どういうふうに違っているのだろうか。
それはファンタジーということばで説明するのが分かりやすいかもしれない。いや、わかりやすくはないかもしれないが、少なくともなんとか説明することはできるだろう。
〈ファンタジー〉
わたしが初めて倉重の口からファンタジーということばを聞いたのは北京での展覧会のときであった。北京の展覧会というのは、2011年東日本大震災後の6月に北京の798芸術区にある四面空間画廊で開催された「不期而遇-BUMP INTO」というグループ展のことである。この展覧会は、中国、韓国、日本の作家たちによる現代美術交流展である。各国から数人の作家をコミッショナーが推薦するということになっていて、中国は芲鑫(ツァンシン)、韓国は金在寛、日本は吉岡が推薦者ということになって、わたしは、倉重光則、太田三郎、中津川浩章、永野のり子を選んだ。
展覧会そのものは、たくさんの観客を集め、楽しく交流することができたのだが、何日目かに、みんなで食事をする機会があって、中国酒の白酒(パイチュウ)を飲んでいたときだった、途中から美術論議が始まり、倉重と芲鑫がなにやら言い争いに近い議論をしているのが目に入った。聞いていると、倉重がしきりにファンタジー、ファンタジーと言っているのが聞こえた。作品というのはファンタジーなんだよ、といつになく興奮しながら大きな声を上げていたのだ。
わたしは、倉重作品の幾何学的な形態と、ネオンを使った理知的な作品とファンタジーということばの組み合わせがしっくりこないなあと感じたのだったが、倉重の言うファンタジーの意味を飲み込むことができたのは何年もあとになってからだった。
話をもの派に戻そう。もの派の作品というのは、簡単に言ってしまえば、ものをものとしてそのまま提示することで、ものそのものを見つめ直し、認識することで芸術の再創造をめざしたものである。
自分という主体が居て、目の前には「もの」という客体がある。ものに対して自分が関わることを最小限に抑えるという逆説的な表現であると言えるだろう。少し飛躍してしまうかもしれないが、これは、主体と客体の分離であり、自分と世界の隔離である。そこには観察はあるが、物語はない。
『デカルトからベイトソンへ-世界の再魔術化』 という示唆に富む面白い本の中で、著者のモリス・バーマンは主体と客体の分離という科学的世界観が広まったのはアイザック・ニュートンやガリレオ・ガリレイの実証主義的実験を基本とした世界の見方であると言う。それはwhy(なぜ)を問うことなく、how(どのように)ということのみを問題にする態度である。物が落ちるのは重力があるからである。時間が経過するに連れて加速する。ものがどのように落ちていくかの説明は詳しくするのだが、なぜ落ちていくのかという説明はしない。ところが、ニュートン以前の科学では、こんなふうに説明をしていたのだ。
「ものはなぜ落下するのか。地球の中心が 「本来の居場所」 だから。なぜ次第に落下速度を速めるのか。旅人が故郷に近づくと足どりを速めるのと同じで、喜びに興奮するから。重い物体は軽い物体より早く落下する。興奮する分量がそれだけ多いから。」
科学的には全く正しくないわけなのだが、わたしたちはこういう説明を喜んで受け入れてしまう。それは、howではなくwhyに答えているからなのだ。whyに答えることができるのは科学ではなく物語なのだ。物語の中では自分と世界が分離せずに同じ空間の中に居るのである。これがファンタジーの本質である。
しかし、現実のわれわれの住む世界は、科学的実証主義に覆われてしまっていて、世界とわれわれとの距離は遠ざかるばかりである。
アメリカの詩人、シルヴィア・プラスは自身の作品の中に
星は星
石は石
私は私
という強烈なことばを書き、後に自殺することになるのだが、このフレーズは実証主義的科学の世界の中で、自分と世界が引き裂かれる絶望的な孤独と疎外感を表現しているのである。星は星であって私とは関係がない。石は石であって私とは何の繋がりもないのである。そこには物語は存在しない。われわれは物語の中でしか生きられないのである。それが科学的に正しいかどうかではなく、その物語によってわれわれが救われるかどうかというところが肝心なのである。
倉重光則は、光と幾何学を使ってファンタジーを紡ぎだす。ファンタジーとはわれわれが参加することのできる物語のことである。彼が、表現方法として、インスタレーションという方法を採用したのも、作者と作品(物語)が一体となることを目指したからなのである。彼自身が作品の中に居て、それを見るわれわれも参加し、その中で憩うことができるのである。インスタレーションのなかで、われわれはその一部となるのだ。
その物語を語るのは、ネオンライトであり、幾何学的形態であり、そこに伺える彼自身の身振りである。倉重が光を蛍光灯からネオンライトに変えたのはファンタジーを語るためだったのではないだろうか。蛍光灯というモノからネオンということばへの転換である。
〈ことば〉
ネオンと幾何学でファンタジーを語る倉重は、ことばそのものによっても表現をする。ことばは倉重作品の重要なエレメントの一つである。印象的な作品を紹介する。2015年にベオグラードで開催された4人展 「2+2」 に参加したときに、倉重が自作の文章を音声で流し、インスタレーションの一部として組み込んだ作品である。倉重の作品を紹介する前に、この展覧会について簡単な説明をしておくことが必要だろう。
この展覧会は、セルビアの国民的な画家である、ミラン・トゥーツォヴィッチの企画で4人の作家が作品を発表するという日本とセルビアの交流展である。
「2+2」 2015年 5月30日-6月19日 セルビア国営放送局ギャラリー
ミラン・トゥーツォヴィッチ/サーシャ・マリアノヴィッチ/倉重光則/吉岡まさみ
ミラン・トゥーツォヴィッチは、古典的な技法を駆使しながら、人物画を描くことで著名な画家であり、2019年にはローマ教皇の肖像画を描くように依頼されていたのだが、肖像画に手をつける前に心筋梗塞で亡くなってしまった。サーシャ・マリアノヴィッチも鉛筆を使って具象的な絵画を描く画家である。二人とも、われわれ日本の現代作家とは作風が全く違うので、わたしはひそかに心配していた。ミランは、われわれの作品をどう評価するのだろうか。倉重は、古典的技法を駆使する具象画家とうまくやれるのだろうか。彼はグループ展をやる場合に、いっしょに展示をする作家の選び方にはいつも慎重で神経質になるのだ。
ところが、わたしの心配をよそに、倉重とミランは意気投合した。それは、おそらくお互いの作品の中に共通項を見出したからに違いない。その共通項とは、物語、すなわちファンタジーである。
セルビア滞在中は、いっしょに食事をする場面が何回もあったのだが、時々二人だけでワインを酌み交わしながら、げらげら笑っている姿を見て、周りのわたしたちは首を傾げていた。ミランは英語ができないし、倉重も英語は不得手である。セルビア語と日本語で会話していたのだろうか。倉重に、どうやって会話していたのか?と訊くと、テレパシーだよという答えが返ってきた。ことばを使わなくても彼らは会話ができるようなのであった。
セルビア国営放送局ギャラリーは、天井の高さが8メートルほどあり、展示スペースもかなり大きくゆったりとした空間で、そこで4人の作家がいっしょに展示することになっていたのだが、日本に居るときから倉重は、光を使うから、みんなと遮断された一室がほしいと主催者に要求していた。わたしは、倉重のために別室を用意するのかと思っていたのだが、主催者側は、驚くべき措置をとった。
ギャラリーの一面の壁の高さ2メートルほどのところに、バルコニーがせり出していて、上からギャラリーを見下ろせるようになっているのだが、そのバルコニーの下の空間を壁で仕切り、部屋を作ってしまったのだ。もちろん仮設の壁だが、業者を入れた本格的なものだった。
倉重のために作られた「別室」で、倉重は作品の設置を開始する。一番奥の壁に映像を流す。点滅する正方形である。その前の床にネオンを這わせる。そこから10メートルばかり離れた入り口付近にヘッドフォンを2セット用意して、観客に朗読の声を聞かせるという設えである。まだ映像もネオンにも電源を入れていない状態で倉重は配線の作業をしていた。どんな作品になるのか、誰にも想像できない状態だったのだが、倉重の作業の様子を見ていたミラン・トゥーツォヴィッチが、
「こいつは天才だ」
と小さい声でつぶやいたのをわたしは聞いている。
倉重は若いときから作品を作ると同時に文章も書き、機会があると少しずつ発表もしてきた。それは散文詩と呼んでいいような、とりとめのないイメージの連続という体裁をとることが多い。セルビアで発表するために書いたものも、やはり絵画的なイメージを連想させる美しいことばで埋め尽くされていた。セルビアで発表するために、セルビア語でも読むことになり、在日セルビア共和国大使館職員の小柳津千早さんの助けを借りて翻訳してもらい、朗読を小柳津さんの奥さんでセルビア人のブランキッツァさんに頼んだ。日本語の朗読は倉重本人がやることになった。
録音は、5弦ウッドベース奏者の水野俊介氏のスタジオを借りた。一切の雑音が入らないようにしたかったからである。録音中は誰もスタジオを出入りすることなく、順調に進んでいった。ところが録音途中で、水野さんの飼っていた猫がドアの隙間から入ってきて、「ニャー」と鳴いて、また出て行った。倉重は、最初から録音し直すことはしないで、闖入者の声をそのままにしてしまった。
「別室」での配線作業が終わると、倉重は早速スイッチを入れて、作品に光を点した。床と壁の接線に沿って青いネオンライト。奥の壁面には正方形の画面が眩しく点滅を繰り返している。
ヘッドフォンを着けて音声を聞く。倉重の声は聞き飽きているので、わたしは30秒ほどでヘッドフォンを外して、セルビア語の方に着けかえる。ブランキッツァさんの声は、倉重と全く違って、優しくゆったりと流れていた。わたしはその声にうっとりしてしまったのだが、意味のわからないセルビア語の朗読を聴きながら、激しく点滅する正方形を見ていると、視覚と聴覚が同時に刺激され、わたしの頭の中に、全く新しい世界が広がっていくのを感じていた。ニューヨークかどこかの夜の街中をあてどもなく彷徨しながら、甘美な情景に身を浸していたのだ。意味の分からないセルビア語が、意味の無いままわたしを包んでいた。このまま一晩中聴いていたいと思った。
どう考えても、倉重の声よりもブランキッツァさんの声のほうが魅力的なのだが、不思議なことに、セルビア人の観客たちは、彼女の声ではなく、倉重の方に集中した。意味の分からない日本語の方に惹かれたのかもしれない。ことばが伝えるものは、その意味だけではないのである。
わたしはブランキッツァさんの声がまた聴きたくなって、再びヘッドフォンを着けた。朗読の途中で、ニャーという猫の声がした。
〈部屋〉
あまり知られていないが、倉重の多様な作品群の中で、部屋をテーマにしたものがある。
上述したセルビアでのグループ展の報告展が、品川にある旧セルビア大使館で開催された。
「2+2 報告展」 2015年 10月19日-23日 旧セルビア共和国大使館/東京
この展覧会は「報告」なので、セルビアでの展示に準じた作品を展示するわけなのだが、倉重は、セルビアでの作品とは似ても似つかない作品を作った。それが「部屋」である。
セルビア大使館には広い庭があったのだが、倉重はそこに小屋を建てると言い出した。そして、垂木とベニヤ板を使い、本当に小屋を作ってしまったのだった。みんなは呆れながらも感心して大工さんになった倉重を見ていた。出来上がった小屋は階段を昇って部屋に入るようになった高床式で、部屋に入ると、中には自分の作品や、他の人の作品、書籍などが置かれていて、小さな窓から差し込んでくる明りに照らされていた。この小さな部屋の中で、何よりも本人が寛いでいたようである。
倉重は、「方丈記」に憧れていると言った。鴨長明のファンというよりは、ただ方丈という狭い空間で書いたり読んだり、思索したりすることに憧れていたのだろうと思う。
方丈というのは3メートル四方くらいの広さだという。四畳半くらいだろうか。正方形なわけだが、旧セルビア大使館庭の方丈は正方形ではなく、少し長めの長方形だったが、倉重はご満悦だった。
狭い部屋というのは、自分ひとりだけの自由な空間であり、秘密基地でもある。秘密基地はどんな子供でも夢中になる。そこは空想を自由に思い描くことができるファンタジーの世界であるからだろう。
中学生のときに、倉重は自分の基地を作ってそこで自分の時間を過ごしたそうである。家の近所にあった土管の中にそれは建設された。
土管といっても今の若い人にはどんなものか想像できないかもしれない。倉重が中学生だった、昭和30年代は、いわゆる経済の高度成長期であり、日本のいたるところで住宅やビル等の建設が盛んに行なわれていた。建設予定地である空き地には直径1m以上あるような巨大な土管が何本も積まれていた。土管といっても実際はコンクリート製だったはずであるが。
中学生の倉重は、土管の一つを自分の根城として選び、そこを居住空間にしていった。机を入れて勉強した。本当に勉強したのかは不明。学校から帰ると、カバンと教科書は、土管の中に置きっぱなしにした。勉強道具の他にもさまざまなもの(グッズ)を配置した。たとえばフラスコやビーカーなどの実験道具。これは学校の理科室から拝借したものである。盗んできたという言い方もできる。実験道具には夢が隠れている。こんなふうにして楽しい日々を送っていたのだが、ある日、台風が来て、近くの川が氾濫して、倉重の土管の部屋も浸水し、中にあったものがすべて流されてしまった。台風のあと、土管の周りに散乱していた倉重のグッズは近所の人に見つけられ、その結果、親に大目玉を食らうことになる。なぜそれらが彼のものだとわかったのかというと、散乱した「家財道具」の中に教科書があり、倉重光則と名前が書いてあったからである。
流されてしまった基地は、50年以上経って、旧セルビア大使館の中庭に再現されたというわけなのであった。中学生だった倉重の当時の遊び心は、現在までそのまま持ち越されて、作品として結実したのだった。中学生のころの秘密基地と、旧大使館の庭の部屋との違いは、「お客さん」であろう。
土管は秘密基地だから、自分以外の誰も入れない。友だちの何人かには見せたかもしれないが、基本的には隠された場所である。一方、大使館庭の部屋には、お客さんを呼び入れる。どうぞどうぞ、と言いながら、案内する。新築祝いのようでもある。自分ひとりで空想に浸っていた中学生の倉重は、お客さんを招いて、自分と同じように夢を見て、空想し、ファンタジーの世界を知ってもらいたいと思うようになったのである。
ネオンを使ったインスタレーションと、この部屋を使った作品は、全く違ったタイプに分類されるような気がするのだが、その中で「遊ぶ」ことができるという点では、同系列なのである。
旧セルビア大使館の庭の部屋が高床式なのは、川が氾濫しても流されないための用心だろう。
〈インスタレーション〉
インスタレーションとは何か、という、少々ややこしい話をしないと、倉重の作品に入り込むことができないので、しばらくおつき合い願いたい。
パソコンにインストールする、という言い方があるが、インストールというのは設置するという意味で、インスタレーションはその名詞である。文字通り設置することだが、仮設という言い方もわかりやすいかもしれない。仮設住宅の仮設である。設置芸術、仮設美術と訳すことができる。
絵画や彫刻のように、ギャラリー内や屋外の庭といったところに作品は置かれるわけだが、移動させなければ、作品はそのままそこにあり、半永久的にそこに展示されるということもありうるのであるが、インスタレーションは、最初から「仮設」であり、仮設であるということは、いずれ撤去されるということを前提としている。作品は無くなってしまうのだ。展示が終わったら無くなってしまうというのは、潔いといえば潔いのだが、なぜそんな作品を作らなければならないのだろうか。
たとえば、ギャラリー内にインスタレーション作品を作る場合、壁にオブジェを取り付けたり、床に木を置き、布を広げる。あるいは写真を貼り付けたり、音声や映像を流したりもする。要するに、空間全体を作品化してしまい、気がつくと、鑑賞者は、作品の中に佇んでいるという趣向なのである。
インスタレーションが活発に作られるようになったのは、日本では1960年代後半からだと思うのだが、当時、東京のギャラリーを見て回ると、ほとんどの作家は、インスタレーションという形式を採用していて、絵を描いたり彫刻を作ったりする「古い」人たちは少々肩身が狭かっただろうと思うくらいだった。それは高度経済成長期とも重なっていたような気がする。
日本では、インスタレーションという表現形式を採用する作家はどんどん減っていき、現在では、なかなか目にする機会がなくなっているというのが現状なのだが、その中にあって、倉重光則は、執拗にインスタレーションという方法を取り続けている。
しつこいようで申し訳ないが、インスタレーションという形式は、展示が終わったら、解体されて無くなるということを前提としている。それは、われわれ人間はいずれ死んでしまう儚い存在であることの反映であるし、地球はボタンひとつで、いつでも核戦争に突入する恐怖とも関連しているだろう。2011年の東日本大震災では、われわれ日本人は、日常がいとも簡単に奪い去られるという経験をして、人生や、ものの見方が変わったはずである。どんなものでもいずれ「終わり」が来る。インスタレーションはそういったきわめて現代的な感情を表しているのである。無くなってしまうこと、いわば「死」を表現した形態なのである。世界的には、今でもインスタレーションという形式の作品がたいへん多いという現状の反面、日本では、インスタレーションが衰退してきているという事実は、何を意味しているのだろうか。
こういった暗い側面を内在させるインスタレーションであるが、積極的に明るい方向性も併せ持っていることに注意したい。それは、観客が外側から作品を俯瞰し作品の意味を認識するのではなく、作品の内部に入り込み感じ取るという鑑賞ができるという意味なのであるが、倉重光則のインスタレーションでは、それがファンタジーという姿で現われるのである。
2020年1月、倉重は、彼のファンタジー世界を凝縮させたようなインスタレーションを展開した。
倉重光則展 「光と物の間」 2020年1月13日(月)-25日(土) Steps Gallery/東京
搬入スタッフが、ギャラリーの床に置かれた何本ものネオン管を並べていた。20cmから30cmくらいの短いものから、長いものは1mほどもあるネオン管を組み合わせて、ああでもない、こうでもないと言いながら、長短さまざまに配列していた。彼らは、何やら紙片を見ながら、その長さを決めているようだった。
その紙片を覗くと、詩のような文章が書いてあった。
「この夏 まばゆいばかりの空の下で ボートを操りながら一日を過ごした」
という一行で始まる、「短い話」という散文詩のようなものであった。
彼らは、この文章の行に合わせてネオンを並べていたのだ。ネオン管の配列と配線作業には二日間かかった。
文章は額に入れて、壁に飾った。床に並べられたネオン管にスイッチを入れると、鮮やかなブルーの光は、額のガラス面に美しく映った。ちょうど文章の隣にネオン管が映りこむことになり、文章とネオン管の配列の比率がぴったり一致しているのが見て取れた。それは不思議な光景だった。
わたしたちは倉重の文章を読んでその内容を味わったあとで、その文章と全く同じ比率で並べられたネオン管を見ることになるのだが、ここで面白い現象が起きる。文章を見ずに、ネオン管だけを見ていたときには、ネオン管が発するブルーの光が作り出す造形に目を奪われていたはずなのだが、文章と光の関係を知ったとたんに、光はことばに変換される。ことばが光に変換されるといってもいいだろう。光は見るものから読むものに変わるのだ。もちろん、光はことばのように意味を持つわけではないのだが、意味を持たない光をわたしたちは読み始めるのだ。それは、ぞくぞくするような今まで味わったことのない感覚だった。それは、ことばによらない物語が空間のなかに醸成されていくといった趣なのである。その物語は、まさに倉重のいうファンタジーなのであろうと思われた。わたしたちを別世界に連れて行き、夢の世界に漂わせてくれる。
この作品に使われた文章は倉重が20代前半のときのものである。50年前である。文章は古びることなくみずみずしさを保ったままだ。50年という時間も作品の中に取り込まれて、時間、ことばと意味、光と空間が渾然一体となって、ファンタジー世界を作っていくのだ。
作品はファンタジーなんだよ、という倉重光則のことばが、ようやく理解できたような気がした。
(よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery 代表)