吉岡まさみ
一色映理子の新作絵画である。玄関を描いている。なんでもない普通の日本家屋の玄関であるが、平均的な住宅の玄関に比べると立派な造りと広さである。こんなふうに玄関を内側から描いた絵は今まで見たことがないような気がする。高い天井付近にはシャンデリアが下がっていて洋風であるのだが、上がり框があり、家の中に入る際は靴を脱ぐようになっているところは和風である。ただの玄関をこんなふうに丹念に描く理由はどこにあるのだろうとじっと見ていると、この情景の中に、奇妙な点が見つかる。シャーロック・ホームズなら、この玄関を見て、不穏な空気と事件の臭いを嗅ぎ出すかもしれない。
最初に目につくのは(目につかないのは)靴が描かれてないという点。玄関なのに靴が一足もない。綺麗に片付いている。この家には誰も住んでいないのだろうか。誰も住んでいない家だとしたら、鉢植えの棕櫚の葉が、きれいな緑色をしていて小さな湖のように見える玄関マットに葉を差しかけているのは不自然である。そして、画家である一色は玄関から上がって正面の玄関マットの後ろに立っていることになるわけだが、画家本人の靴も見当たらない。靴があると不都合なことがあるのだろうか。
画家は、この玄関をモチーフにして一枚の絵画を作ろうとしているわけなのだが、やはり気になる点が出てくる。その構図である。「絵画にする」には、こんなふうに玄関のドアを真正面から描くであろうか。わたしなら正面を避けて少し斜めからのアングルを採用するだろう。全体の遠近法にも変化がついて絵画らしくなる。玄関のドアが閉まっているが、やはり絵描きなら板チョコレートを思わせる重たそうなドアを少し開けておくだろう。ドアの隙間からは、道路を通る車や遊ぶ子供の後姿やその声が聞こえてくるかもしれない。外の空間と時間を取り入れることで、絵画としての空間に奥行きを持たせることに成功するだろう。しかし、一色はこのドアをガシャンと閉じてしまい、外気を遮断する。ドアの両脇の曇りガラスからは外の様子を伺うことができず。ほのかな光だけが差し込んで玄関全体を照らし出している。右端には二階に上がる階段と手すりが描かれていて、ここから外に出る手がかりをつかめるかも知れないという微かな希望が見え隠れしているだけだ。
今回の個展(2025年1月13日(月)- 25日(土)Steps Gallery/東京)のタイトルを、一色は「YES TO LIFE」とした。「NO」ではなく「YES」である。この場合の「YES」は「受容する」ということであり、「希望をもつ」ということなのだろうか。
この絵の家は、一色が生まれ育った神戸の実家である。懐かしいはずの家だが、郷愁を描いているわけではない。幼少期の彼女は、この家にいい思い出が少ないという。子供ながらにつらい日々を過ごした。一色は何度もこの家を描こうとして描けなかった時期もあったようなのだが、今はこの家と向かい合っている。
靴を描かないことは、ただ単に余計な想像をさせないためなのかもしれないが、結果として現在という時間を消し去る効果がある。ドアを閉め切ってしまうことで、外の空気を遮断する。そうすることで一色は彼女の過去と向き合う。玄関は正面から描く。描かれた扉は、閉めたままで安心のようなものを確保してくれるのだが、同時に大きく開けて外に飛び出していくことも出来るはずである。過去に向き合うために描いたドアは現在を通過しながら、未来につながる入口になるだろう。一色が自分のために描いた絵は、われわれにも希望というものを指し示しているはずだ。
一色はこの絵画を描き終えたら、玄関の扉をそっと開けるのだろう。
「人は希望とともに生きるか絶望とともに生きるかのどちらかだ。中間はない。」
(ジョン・バージャー『画家たちの「肖像」』)
(よしおかまさみ/Steps Gallery 代表)