Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

米沢

米沢

吉岡まさみ

羽黒川に架かる羽黒川橋の下にほいどの一家が住んでいた。ほいどというのは乞食のことである。ほいどの一家の中では幼い男の子しか見たことがなかった。父母などの他の家族の姿を見かけたこともない。わたしは羽黒川の川べりに遊びに行ったときにだけその男の子を見た。わたしが三四歳のころのことだ。その子はわたしより年上だったと思うが、それでも七八歳くらいだろう。学校に行っているようには見えなかった。土手を降りて行くと、ほいどの男の子が待ち構えていたような様子で、ジュース飲むが?と話しかけて来る。わたしがうなづくと、その子は弁当の蓋を出して、川の水を汲んで、その中に小さい袋に入った粉ジュースを溶き入れて指でかき混ぜてわたしに差し出す。昔はジュースといえば粉ジュースだった。駄菓子屋で売っていた。

金色に光るアルマイト製の弁当の蓋を両手で持ってジュースを飲んだ。オレンジ味だった。美味しかった。

そのことをばあちゃんに言うと、そんなもの飲むんじゃない、と叱られた。川の水なんか飲むんじゃない、というのではなく、ほいどの子にものを貰うなんてダメだというのだった。川の水はきれいだった。メダカもいたし、ザリガニも捕まえた。水深は膝までくらいあり、流れもそれほど緩やかではなかったが、わたしは一人で平気で遊んでいた。危険だからやめなさいという大人はいなかった。そういう時代だった。

ばあちゃんというのは、わたしの母のお母さんである。羽黒川橋のたもとに母の実家があった。手作りのような粗末な家だったが、わたしは大好きで、ここで妹とばあちゃんと三人で暮らしていた。実際は、父親も母親も、母親の弟と妹もいたはずなのだが、みんな仕事や学校で忙しかっただからだろう、妹とばあちゃんの記憶しかないのだった。

私の父親は山形市の出身で、国鉄に勤めていた。転勤で米沢駅勤務だった時に母と知り合ったのだ。母は米沢駅で電話交換手をしていた。

ばあちゃんの家からしばらく歩いたところに雑貨屋さんがあった。日用品やお菓子、食料を売っていた。店の奥にテーブルと椅子を置いて、軽食を食べさせた。夏はかき氷やトコロテンを出していた。ばあちゃんは時々トコロテンを買ってくれた。かき氷を入れるようなガラスの器に突いたばかりのトコロテンを入れて提供された。割り箸もいっしょに渡される。ところが、二つに割った二本の箸の一本だけをくれるのだった。酢醤油をかけて辛子も載せて酢にむせながら、一本箸で食べるのだ。わたしは、トコロテンは割り箸一本で食べるものだと思っていたし、そう教えられた。小学校に上がるときに米沢から山形に引っ越しをした。父親が山形に転勤になったからである。山形でもトコロテンを食べたが、驚くことに、山形では誰もトコロテンを一本箸では食べていないのだった。みんな普通に二本の箸で食べていた。トコロテンを二本の箸で食べるのはなんだか奇妙な感じがした。心の中で、トコロテンは箸一本で食べるものなんだよ、とつぶやいた。

今でも不思議なのだが、どうして米沢ではトコロテンを箸一本で食べていたのだろうか?その理由がいまだにわからない。これは米沢だけの風習だったのだろうか?米沢以外の場所ではどうなのだろう?全国にはトコロテンを一本箸で食べる地域があるのだろうか?

トコロテンの店からさらに歩いていくと、中華そば屋さんがあった。米沢ラーメンの店である。山形県では、ラーメンは出前を頼んで食べることが多い。お客さんが来たときにラーメンの出前を取るのが一番のごちそうなのである。お店まで行ってラーメンを食べることは滅多にないのだが、ばあちゃんはお店で食べさせてくれることがあった。米沢のラーメンは美味しいが、冷やし中華も美味しくて好きだった。皿の縁にマヨネーズが載っているのが米沢スタイルで、途中でスープに溶かしながら食べると、いわゆる味変になるのだった。

この店には娘さんが居て、お手伝いをしていた。まだ二十代だったのではないかな。注文したラーメンを運んできてくれるのだが、ばあちゃんと近所の茶飲み友達は、彼女のことを不良と呼んでいた。

「あの娘は最近コンタクトつけだんだど」

「へえ!コンタクトって、眼のながさレンズ入れるんだべ?」

「んだ。ほだなごどしていいわげないべした」

「不良だな」

今から六十五年ほど前の米沢での会話である。

(2026年 1月)

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