Steps Gallery

ステップスギャラリー 銀座

韓国料理屋の狭い階段を昇っていくと、カラオケセットが置いてある客室に、鍼灸院のN先生が待っていた。N先生のほかに、営業マンのような男と、若い鍼灸師のような男もいっしょで、ビールを飲んでいた。ほかに客はいなかった。サムゲタンを勧められたから、たぶん冬だったのだろうと思う。N氏は鍼灸院の院長で、わたしはマッサージや鍼の治療を受けていたのである。N氏は、相談があるということで、わたしを千葉の繁華街にある韓国料理屋の二階に呼び出したのだった。

ビールを飲み、キムチをつまみ、サムゲタンを頬張りながら、N氏は、鍼灸院を新しく建てて、新装オープンするという話をした。名前も鍼灸院ではなく、東洋医学研究所とするのだ、と鼻息が荒かった。鍼やマッサージだけでなく、冬虫夏草の販売も手がけるという。ついては、わたしの作品をそこに展示をして、個展のようなことをやってはどうかというのだった。当時わたしは鉛筆を使って、細密描写で作品を描いていた。そういう作品でよければと伝えると、それでいいという。そして、大きな作品を一点購入しようということまで話して、羽振りのよいことを強調した。わたしは、では展覧会をやりましょう、とりあえず大きな作品を額に入れて、「研究所」に送りますと約束した。

N氏は、カラオケで韓国の歌謡曲を韓国語で何曲も歌った。カタカナの歌詞を見ながら歌えば歌えるのだそうだ。若い鍼灸師に「いいか、男はな、ある程度の年になったらオールバックにするんだ」とわけの分からないことを言いながらN氏はビールを煽った。そして「今度の研究所は宗教法人にするんだ」とつぶやいた。

え?宗教法人?それってなんかアブナイ団体になるってことかな、とわたしは驚いたが、しかし、作品を買ってくれるというのなら、まあ、そこは目をつぶるか、と考えながら、はあ、と小さく答えた。

この話は、今から二十数年前のことだ。わたしは三十七歳のときに、ベーチェット病になり、視力が極端に落ちて、鉛筆の細密描写ができなくなった。だから、三十七歳になる前のことなのだ。今わたしは六十二歳だから、二十五年ほど前のことになるわけである。

当時は、鉛筆で架空の動物のようなものを描いていて、大きな作品は2メートルとか3メートルとかのサイズだった。院長は、2メートルの作品を買おうということだったので、早速、額に入れるために、作品を横浜の額屋さんに運ぶことにした。

運ぶ仕事は、ある運送会社のSさんに頼んだ。わたしが個展をやるときは、いつもSさんが担当で作品を運んでくれていたので、今回も気軽に頼んだのだ。まず、作品を横浜まで運んでもらい、額ができあがったところで、今度はそれを千葉の「研究所」まで運んでもらう手はずをとった。当時Sさんは、自分のトラックを持つようになっていたので、この仕事は会社を通さずに、個人で請け負うという形をとった。わたしは気が楽だったし、Sさんもその方が儲かるわけなのだ。額装や運送費でかなりの出費を余儀なくされたが、院長が作品を買ってくれるわけだから、なんとかなるだろう。

千葉に運んでもらう日は、わたしは仕事で立ち会えなかったのだが、Sさんから電話が入った。作品が研究所の建物に入らないということだった。大きすぎて、ドアからも、窓を全部はずしても無理だということだった。

その後、作品を買ってくれるという話はなくなり、個展もうやむやになり自然消滅することになった。

そして、その額装された2メートル四方の作品をどうするか、という問題が残った。研究所に入らない作品は、わたしの自宅にももちろん入るはずもなく、わたしは途方にくれた。わたしはいろいろと考えをめぐらして、実家のある山形に送るのがよいと思いつく。実家のガレージなら大きいし、充分入るだろうと考えたのだ。

Sさんに電話を入れて、作品を山形まで運んで欲しいと頼むと、Sさんはすぐに承諾してくれて、では、作品はそのまま私のトラックに積んでおいて、今度の休みの日に日帰りで運びますと約束してくれた。

Sさんとは作品を運ぶ車に同乗して、何回も東京のギャラリーまで行ったことがあるが、あるとき、どうして運送屋になったのかと訊くと、Sさんは「運転が好きなんですよ」と楽しそうに答えた。車の運転をしているときがいちばん幸せなのだそうである。

「車に乗ってるときは自分一人でしょ。誰にも命令されないし、自由に動けるからね」

「運送ってさ、距離なんだよね。距離で値段が決まるの。だから地方に行く仕事は嬉しいよね。都内だと時間だけかかってあまり儲からないの」

「今は主任とかになっちゃってさ、ずっと会社のデスクワークばっかりなんだよね。やっぱり運転してたいんだよなあ」

山形まで作品を運ぶ日も、わたしはいっしょに行くわけには行かないので、Sさんにすべてまかせて、山形の母に連絡をして、トラックを待つように伝えた。

後日、わたしはSさんに支払いをして、山形まで行ってくれたお礼を言った。Sさんはそのとき山形行の話を詳しくしてくれた。Sさんの話はこんなふうだった。

Sさんには奥さんと三人の子供がいる。いちばん下はまだ乳飲み子である。その上の女の子は3、4歳くらいだったかな。上の男の子は小学校1年生くらい。

おれは仕事でずうっと忙しかったからさ、家庭サービスなんて全然できないのよ。女房なんて旅行にも連れて行ったことがないからさ、せっかく山形に行くんだったら家族を連れて行こうと思ったんだよね。山形までドライブってわけよ。せめてもの家庭サービス。

トラックは3人乗りだから、奥さんと赤ちゃん、Sさんともう一人乗ったら、座席はいっぱいである。仕方がないので、いちばん上のお兄ちゃんは留守番ということになったそうである。

大丈夫。朝早く出てすぐに戻ってくれば夕方までに着くから。朝の暗いうちに東京出たの。子どもたちは寝てたから抱っこしてトラックに乗せたの。途中でおにぎりを食べながらトラックを飛ばしたんだよ。

山形に着いて、無事に作品をガレージに入れて、トイレだけ借りて出発しようとしたら、母親が、お茶でも飲んでいってと声をかけて炬燵に座らせたそうである。外は雪が降りしきっている。    

お茶と漬物いただいてね、いやあ、美味しかったなあ。

母は、おそらく、お茶をどんどん注いで、漬物をすすめ、子どもにはお菓子をふるまったに違いない。漬物は青菜(セイサイ)ではなかっただろうか。

母親はタッパーに漬物を詰めてお土産として渡した。

子どもたちはまだ雪を見たことがなかったから、見せてやりたくてねえ。東京で待ってる息子に雪を持って帰って見せてやりたかったんですよねえ。

Sさんは、最初から雪を持って帰るつもりで、弁当箱を持参したのだそうである。弁当箱に雪を詰めて、トラックを飛ばして、溶ける前に東京に着くというつもりなのである。雪を詰めた弁当箱を、母は念のために発泡スチロールの箱に入れて二重にし、溶けないように装備した。

作品の代わりに、雪の弁当箱をトラックに載せて、Sさん一家は息子に雪を見せたい一心で東京へと急いだ。

「息子さんは無事だったんですか」

「うん。大丈夫だったよ」

「雪はどうなったんですか」

「うん、みんなで集まって弁当箱を開いてみたら、全部水になってました」

その後、一週間ほどして、Sさんから手紙が届いた。娘が絵を描いたので見てください、とあって、画用紙が折りたたまれて入っていた。開いてみると、雪だるまの絵が描いてあって、その下に、文章が添えられてあった。

やまがたにいきました。

ゆきだるまをつくりました。

たのしかったです。

(2019年 1月1日)

03-6228-6195