吉岡まさみ
朝から夜遅くまでずっとアトリエにこもることが多いという。
「長いあいだ仕事してたらへとへとになっちゃいますよね?」
「そうでもないのよ。わりと平気」
「一日の作業が終わったら、ビールをかーって飲むわけだ」
「わたし、お酒ほとんど飲まないのよ」
「じゃあ、お茶?」
「コーヒー淹れるわよ、自分で。あと、チョコレートとかお煎餅なんか食べる」
「へえ」
「わたしは他の人がアトリエに居ると仕事できないの。一人じゃないとダメ」
一人で鉄板を裁断したり、鉄棒を切断したり、溶接したりを続けているわけなのだ。これを聞いてスタインベックの言葉を思い出した。『チャーリーとの旅』という本の中で、ジョン・スタインベックはこんなことを言っている。
誰か近くに相手がいると、時間が決まる。現在という時間だ。相手と話をするその時間は現在なのだ。しかし、一人でいることが長くなると、思い出も現在の出来事も、予測もすべて同じものになる。過去と現在と未来の区別がなくなり、同時に流れていくというのだ。時間から自由になるということなのかもしれない。平石裕も、時間から自由になった一人だけの空間で彫刻を作っているのだ。
今回の個展(2024年10月26日(土)-11月9日(土)アトリエ・K/横浜)で平石は、鉄の棒を溶接して組み合わせた作品を並べた。前回までの個展で発表してきた作品群とはずいぶん印象が違っている。今までは、鉄板を四角形や円形に切り抜いて組み合わせ、錯綜した空間を作っていた。円形を使った作品では発色の強い赤や黒を塗布し、怒りなどの感情やエナジーを「発光体」として提示していたし、イエロー、ピンク、黄緑などの明るい色彩を使った小品群では、「ドリーム」というテーマで平和な世界を表わしていたりした。ところが今回の作品は鉄の棒をつなぎ合わせただけの武骨な仕上がりなのだ。わたしはこれを見てテレビアンテナを連想してしまった。若い人はテレビアンテナといっても、言葉では知っていても、実際に見たことはないだろうし、その形態を思い浮かべることはできないかもしれない。昔は各家庭に一台ずつ家の屋根にアンテナがついていた。金属の棒を立てて、てっぺんに一本の金属棒を水平に取り付け、さらにその横棒に直角に何本かの棒が並んでいる。これがテレビの電波を受け取る機能を持っているわけだ。アンテナは受信機なのだ。平石裕の新作もアンテナ同様、電波ならぬ、人間の声の波長を捉えることができるらしい。彼女はこんなふうに言う。
「戦争、侵略、差別、人々は望んでいないはずなのに歴史は繰り返し、声なき声がたくさん聞こえてくる。」
今回の個展作品は、二つのシリーズで構成されている。
「存在の回帰」と題された作品群は鉄の棒を組み合わせ、幾何学的な形を作り、その棒同士は三角形や四角形、あるいは五角形などを有する立体的で複雑な空間を作っている。なにもないように見える幾何形体の空間には蜘蛛の巣のような網が張りめぐらされ、世界中から届く声をキャッチしているのだ。
もう一つは「鼓動を刻む」と題された作品で、こちらは赤い色を施された四角い棒をつなぎ合わせ、一筆書きのように、鉄棒は一本の線になり、起点と終点を閉じる。トポロジー的に言えば、これはすべて円である。円といっても、滑らかなカーブはなく、ジグザグと曲がりくねっている。赤い線と閉じた円は、人間の血を連想させる。心臓から出た血液は、一周してまた心臓に戻り、鼓動を刻むのだ。
わたしがアトリエ・Kの個展会場を訪れたとき、平石は在廊していなかったので、誰とも話をせず一人で鑑賞した。作者が一人だけの空間で生み出した作品は、やはり鑑賞も一人だけでするのが良いだろう。誰も居ない空間で、黒く塗られた「存在の回帰」たちは、ごくごく控えめに存在しながら、送られてくるメッセージを受信しているのだった。そのメッセージは、現在の声でだけでなく、過去からも未来からも届いているのではないだろうか。一方、目を「鼓動を刻む」に移すと、くねった血管のような彫刻は、「存在の回帰」から流れてくる声を、今度は発信しているように思えてくる。
ギャラリーを出て、わたしは近くの喫茶店に入り、一人でコーヒーを飲んだ。
(よしおかまさみ/Steps Gallery 代表)