自由が丘
吉岡まさみ
彩画堂でデッサン教室のチラシを見つけ、これは参加しなければならないと即断してその場で申し込みをした。彩画堂というのは山形市内にある画材屋さんで、高校の美術部に居たわたしは、しょっちゅう出入りしていた店である。
山形市の繁華街は駅前から離れていて七日町というのがそれにあたる。山形駅を出て駅前通りをまっすぐ500メートルほど歩いていき、交差点を左折すると次第ににぎやかな通りになり店舗が増えていく。老舗のお茶屋、菓子舗、陶器屋、蕎麦屋、本の八文字屋、大沼デパート、グランドホテルなどが並んでいて、1キロほど先にある突き当りは県庁である。県庁の手前には山形県民ホールがあり、図書館も併設されている。裏通りは飲食関係の、ラーメン店、酒場、喫茶店などが軒を連ねる。七日町の商店街には道の両側の歩道にアーケードがついていて、雨が降っても雪か降っても傘を差さないで歩くことが出来る、山形市内では唯一のアーケードなのだ。そんな七日町の表通りに彩画堂があり、一階と二階の店内には、絵の具や筆、額縁などが並び、画材はなんでも揃う。二階の奥にドアがあり、普段は閉まっているのだが、中に入るとイーゼルが並んでいて、デッサンができるスペースがあることをデッサン教室の初日に知ったのだった。
教室は毎週金曜日の夜7時から2時間程度で、主に石膏像を木炭で描き、それを先生が見てまわり指導をする。作品が出来上がると、全員の作品を並べて講評するのだが、いつもわたしのデッサンを見本にして、ここはこういうふうに描くんだよ、と生徒さんたちに説明するのだった。生徒といっても、高校生はわたしだけで、あとは年配のご婦人やおじさんたちの、趣味で絵を習いに来ている方々ばかりだった。つまり、美大を受験することを目的にしているのはわたしだけだったのだ。
当時、高校2年生だったわたしは、そろそろ進路を考えなければならず、やっぱり美術大学に行きたいなあと心づもりをしていた時期で、美大を受験するならデッサン力を身につけなければならないと、少々焦っていた。だからこのデッサン教室は渡りに船で、しかも唯一の船だったのだ。これ以外の選択肢はなかった。デッサンの先生は仙仁(せんに)先生といって、あとで知ったことだが、山形中央高校の美術教師をしておられた。何のことはない自分の高校の美術の先生ではなく、他校の先生に絵を教わっていたことになる。わたしが通っていた山形東高では、美術の授業は、音楽との選択制で、美術か音楽のどちらかの授業を取ればいいことになっていたのだが、美術は自分で絵を描けばいいわけだから、わざわざ授業を受ける必要はないと考え、音楽を選択したのだった。だから学校では美術部で油絵を描いたり、デッサンをしたりしていただけだった。
そのころのわたしの生活はといえば、学校をサボりにサボって家で寝ていたり、喫茶店で煙草を吸ったり、図書館で本を読んで時間をつぶしたりしていた。学校が嫌いだった。なぜ嫌いだったかというと、勉強ができなかったからである。数学の連立方程式には憎悪を覚え、化学や物理はちんぷんかんぷんだった。わからない授業には出たくないというのは自然なことではないだろうか。加えて、わたしは朝が弱かった。起きられないのである。起き上がってみても身体全体がだるく、学校に行く気になれなかった。頭の血の気が引いたようで、軽いめまいが治まらないのであった。どうしてこんなにだらだらしてしまうんだろう、生まれつきの怠け者なのだろうか、と悩んだりしたのだったが、それでも学校には行かなかった。行ったとしても午後から授業に顔を出したり、放課後になってから美術室に忍び込んだりしていた。あとでわかったことだが、これはベーチェット病の初期症状で、口内炎が治らなかったり、熱が頻繁に出たりするのも、この病気のせいだった。二十年後に眼に症状が出て初めてわかったのだった。
そんなふうにだらだらと毎日を過ごしてはいたが、デッサン教室はサボらずに出席していた。ある日、仙仁先生がわたしを呼んで、こんなことを話された。
「吉岡君、美大受験をするなら、一回東京に行かなくちゃだめだよ。ライバルがどんな連中か知らないと。上には上がいるからね」
ライバルたちの実力を見なくてはいけない、まず東京の雰囲気に慣れることが必要だというのだった。そこで先生は東京の美術予備校では春休みとか夏休みに講習会をやってるから、それに参加してみてはどうかと言うのだった。それはそうだろうなあと思いながらも、東京かあ…どうなんだろう、中学校の「修学旅行で行った東京」しか手がかりのない山形の高校生には「遥か遠い」ところに思われて、怖気づいてしまうのだった。
仙仁先生が紹介してくれたのは東京の自由が丘にある、東横美術研究所という美術予備校だった。そこに知っている先生がいるからそこに行ったらいいだろうということだったが、他に東京のことなど何も知らない高校生はそこに行く以外にテはないのだった。渡りに船というのはいつでも一艘しか用意されていないのである。
さっそく春季講習会というのに申し込んで、一週間ほど通うことになった。当時、従妹家族が百合丘に住んでいて、そこに一週間居候させてもらうことにした。百合丘から電車を乗り継ぎ自由が丘まで通った。新百合ヶ丘駅から小田急線に乗り登戸まで行き、南武線に乗り換えて武蔵小杉でもう一度、今度は東急線に乗り換えて自由が丘に到着である。生まれてこの方、電車の乗り換えなんていう経験は一度もなかったわけで、緊張したが、窓外の東京の景色を眺めたり、「東京の人たち」の様子を観察するのが楽しくもあった。東京の人は、同じ人間なのに、違う人種に思えた。自由が丘駅前には亀屋万年堂があった。「お菓子のホームラン王」で有名なナボナの店だ。王選手がコマーシャルをやっていた。亀屋万年堂を右手に見ながら左方向に歩いてゆくと、ダンキンドーナツの店があり、踏切を渡ると田村魚菜の魚菜学園がある。さらに進んで坂道を登って行ったところに東横美術研究所はあるのだった。坂道の途中に駄菓子屋があるのだが、研究所の生徒や講習会の受講者は、みんなその店で食パンを買った。食パンは食べるために買うのではない。木炭デッサンをするときに消しゴム代わりに使うのだ。消しゴムとして使うのはパンの真ん中の柔らかい部分だけで、周りのミミは使えないので、デッサンをしながら食べてしまう。お金のない時はそのミミがそのまま昼食になったりするわけだ。そのお店で売っている食パンは一袋8枚入りなのだが、お店のおばさんは袋を破って半分の4枚を別のビニール袋に入れかえて売ってくれる。学生はデッサンで8枚は使いきれないので、4枚ずつ分けてくれるわけなのだ。
講習会は浪人生よりも現役の高校生が多かった。東京の高校生である。やっぱり東京の高校生は山形とは違う。今から50年前なんて、一般の女性も髪を染めたりしていなかったはずだが、講習会に来ていた女子高生は、髪の一部分を茶色に染めていたりしてびっくりした。石膏像のデッサンと静物を油絵で1枚仕上げて、東京に慣れるという当初の目的は達成されないまま講習会は終了した。描き上げた油絵は「お礼」として従妹の家に置いてきた。
山形に帰って来たわたしは、相変わらず授業をサボりながら美術室で絵を描いていたが、それでもなんとか3年生に進級した。3年生になると、希望進路ごとにクラスが分けられる。文系と理系、それと芸術系に分かれるのだが、芸術系はわたし一人なので、文系のクラスにお邪魔虫となってひそかに生息していくわけなのだが、授業はわたしだけ数学が免除されて、そこのコマは美術の授業に置き換わるのだ。一週間に2時間の美術の授業が2コマあった。当時わたしが通っていた山形東高では1時間の授業というのが95分で、午前中2時間、午後2時間だったのだが、美術の授業は2時間続きだった。美術は2回とも午前中に組まれていた。授業といっても、ただ油絵やデッサンをして過ごすだけだったから、先生は最初に出席を取って、そのあとは居なくなった。わたしは午前中ただぼうっと過ごすだけでよかった。美術室を抜け出して校内の食堂に行って蕎麦を食べたりした。授業中なのに大丈夫なのか、と思うかもしれないが、大丈夫なのである。授業が自習になると、みんな与えられた課題をやるわけだが、教室を抜け出しても特に咎められることはない。グランドに出てサッカーの授業を眺めながら日向ぼっこしたり、食堂に行ったりするのである。先生たちも立ち寄って生徒と同じテーブルで蕎麦を啜っていたりする。牧歌的な時代だった。食堂は朝から夕方までずっと開いている。かけ蕎麦を食べるわけだが、小遣いに余裕があるときは揚げ玉を入れてもらってタヌキにする。わたしが美術の授業をサボっても、先生は、なんだ今日は吉岡は来てないのか、と言って出席簿に「出席」と書き入れてくれた。わたしが授業に来ているのに先生が「欠席」の時もあった。かなりいい加減なのである。いい加減は楽しい。先生の名前は恵山(えいざん)先生といって多摩美の油絵科を出た先生だった。美術部では、生徒が油絵を描いていると「どれ、ちょっとどいてごらん」と言って作品に手を入れる。調子が乗ってくると、ちょっと直すという程度ではなく、ペインティングナイフに絵の具をたっぷりつけて、全面的に改変され、生徒にはもうこれ以上描き加えられないという事態になるのだ。生徒たちは先生の「指導」は勘弁してほしいと思っていた。
ある日、午前中の美術の授業に出た。恵山先生が入って来たのだが、手に職員室でお茶を飲む茶碗を持っていて、「まあ、これでも飲め」と差し出した。顔を近づけてみると、酒の匂いがぷーんとして、明らかに日本酒であることがわかった。断るのも悪いのでわたしは口をつけて最後まで飲んだ。先生はただ単純に吉岡を元気づけてやろうと思っただけだと思う。美術室は治外法権なのである。わたしは顔を赤くしたまま次の数学の授業に出た。
受験を意識してはいたのだが、今ひとつ身が入らずだらだらとした毎日を送っていたのだが、勉強以外のことにはいろいろと手を出していた。
英語弁論大会というのがあって応募した。当時わたしは近所のアメリカ人宣教師の家で開かれるバイブルクラスに通っていて、英語で聖書を勉強し、英会話も自然に覚えていった。英語には興味があり、美術がダメだったら英語の道に進んで、通訳とか翻訳者とか目指してもいいとも思っていた。学校の勉強はからっきしダメで、学年では下から一桁に入る成績だったのだが、英語だけは上から数えたほうが早かった。宣教師の先生に原稿をチェックしてもらい、暗記してスピーチの練習もした。山形県大会では、なんと優勝してしまい、東北大会に出ることになった。東北大会は秋田県の横手で開催された。2位になったが、優勝しないと全国大会には出られなかったので、悔し涙を流した(実際に泣いたりはしていない)。あとで聞いた話だが、このとき優勝した宮城県代表の生徒とわたしは同点だったのだが、彼は2年生でわたしが3年だったので、若い方の2年生が優勝することになったのだそうだ。全校朝会で、弁論大会の賞状を校長先生から渡されるのを見ていた同級生たちは、吉岡やるじゃん、ただの出来ないやつじゃなかったのかと少し見直したかもしれない。
調子にのったわたしは、今度は読書感想文コンクールに応募することにした。図書室で山形県の読書感想文コンクールのチラシを見つけたのだ。課題図書一覧を見ると、斎藤茂吉に関する本があった。これだ、と思って本棚を眺めていたら、その本が置いてあったのでさっそく借りることにした。それは斎藤茂吉の歌碑に関する本だった。上山市の斎藤茂吉の生家のまわりにある歌碑を紹介したものだった。そこでわたしは思いついたのだった。そうだ、この本に載っている歌碑を全部見てまわろう。そして、その道中をルポルタージュふうに書いていけばいいんじゃないかな。そうすれば、難しい歌の解説や謂われとかを避けて通ることができるじゃん、と安易に考えたのであった。
相方として、中学校の同級生だったO君を選んだ。いっしょに上山に行かないか?斎藤茂吉の歌碑を見て歩くんだよ、と誘ったのだ。わたしは高校3年生だったが、O君は大学1年生だった。同級生なのになぜ?と思うだろうが、わたしは高校に入るときに1浪していたのだ。だから山形東高ではO君は1年先輩であり、わたしが高3の時、彼は法政大学の1年生だった。夏休みで帰省していた彼を誘い出したわけである。山形駅から電車に乗り、上山駅で降り、歩いたりバスに乗ったりしながら歌碑巡りをした。課題図書をもって行ったが、本文を読むことなく、歌碑のある場所を調べるガイドブックとして使った。歌碑を見て歩き、途中で休んだところや食べたものなんかを書いただけの文章だったが、それを送ったら、最優秀賞になった。後日、山形放送のラジオで、小学生、中学生の最優秀賞の子たちといっしょに朗読した。これも全校朝会で表彰された。
当時わたしは詩も書いていて、できた詩を山形新聞の詩壇に送っていたら、ときどき入選して紙面に載るようになっていた。ジャン・コクトーの「詩を書くから詩人なのではない。詩人だから詩を書くのだ」という言葉に心酔して、おれは詩人だ、そうに違いないと思い込んで夢中で書いていたのだ。山形新聞の詩壇には年間賞というのがあって、天・地・人という三つの賞があった。わたしは1年のときと、2年のときも連続して地賞をもらった。同級生からは「吉岡、載ってたじゃん!」と言われてちょっと自慢顔になっていたかもしれない。
ある日、受験を前にして、担任の先生との面談があった。
「吉岡、お前、文学で身を立てようとか思ったらだめだぞ。文学を目指すやつなんて何万人もいるんだぞ。作家になれるのなんてほんの一握りだ。文学を甘く見てたらだめだ」
わたしは美術大学に行こうとしていたわけだし、文学を目指すなどということは考えてもいなかったが、担任は、国語の先生で、たぶん若いころ文学を目指したことがあったのだろう。わたしが山形新聞の詩壇に投稿していたことも知っていたはずである。ひょっとしてこいつは間違った道を選ぶかもしれないと思ったのではないだろうか。文学が間違った道だったら、美術はさらに間違った方向のはずだが。
読書感想文の次は演劇部で舞台美術を担当し、舞台に立ち演技もした。受験からどんどん遠ざかり、気を紛らわせていたのかもしれない。
ある日、昼休みに演劇部の部長から呼び出されて演劇部の部室に行くと、部長がプリントを差し出して「これちょっと声出して読んでみて」というので、台本のセリフのような文章を一区切り読むと、部長は「それ、お前の役だから」と、驚くわたしの顔を涼しい顔で見た。演劇部では部員不足だったのだろうか、誰か助っ人を探さなければならない、吉岡は暇そうだから、あいつに声をかけてみようと考えたのである。プリントをよく見ると、それはスタインベックの『二十日鼠と人間』だった。部長が小説から台本を書き起こしたのだろう。役を引き受けなければ部室を出られない雰囲気だった。「で、舞台作りも頼むぞ」などと言われてしまい、もう拒否はできなくなった。
長いセリフを暗記するのが大変で、何度もくじけそうになったが、ほかにやることもないのでがんばるしかなかった。授業はサボりながら、放課後には美術室や演劇部室で舞台の背景を作った。手伝いに来てくれた演劇部の下級生をこき使いながら、背景の煉瓦塀を絵具で描いた。会場となる山形県民会館ホールの玄関に飾る巨大な立て看板のデザインも引き受けた。背景の煉瓦塀には蔦を這わせたらいいかもしれないと思ったので、学校の体育館の壁に絡まっていた大量の蔦をはぎ取って段ボール箱に入れて持ち帰った。客観的には盗んだと言えよう。
公演当日は会場満員とはいかなかったが、客席は半分以上埋まって、高校生の演劇部公演としてはまあまあの入りではないだろうか。劇がどんなふうに始まって、どんなふうに進んでいったのかまったく覚えていないが、自分の出番では極度に緊張して演技するというよりも覚えたセリフを忘れないうちに吐き出すことに専念していた。緊張していたにもかかわらず、客席の様子は、ステージからはっきり見えた。
高校の同級生や他学年の生徒たち。数少ない女子生徒。山形東高は共学だが、女子はクラスに一人か二人しかいなかった。何人かの先生たち。バイブルクラスのアメリカ人宣教師とその家族。他校の演劇部の部員らしい集団。山形西高演劇部も来ていた。女子高である。女優の渡辺えりは西高演劇部だった。わたしより二歳ほど年上だったはずだからすでに卒業していたけれど。
最終場面が終わり幕が降りる。カーテンコールがあるわけでもないのに幕を開けて出演者は挨拶した。ただお辞儀をしただけだったが。客席にいた何人かが舞台に上がって来て舞台背景を検分していた。他校の女子生徒ばかりだったが、わたしが描いた背景の煉瓦塀を触りながら、「へえー、これって本物じゃないんだ」と驚いていた。それを描いたのはオレだよ、と自慢したかったが我慢して平静を装っていた。「蔦は本物なんだね」もちろん盗んだとは言わなかった。
そうこうしているうちに受験シーズンがやってきた。
わたしは東京芸大の油絵科、それと上智大学の英語学科、さらに上智大学の国際学部を受けることにした。芸大を落ちて上智大学に合格した場合、わたしは英語の道に進んで通訳とかになりたいと考えていた。通訳の傍らでも絵を描くことはできるはずだ。英語学科と言うのは英文科とは違って、文学ではなく、もっと実利的な英語を使うことを目指した学科だったはずである。上智の国際学部というのは軽い気持ちで受けてみた。知り合いの国際学部の学生だった女性から、大丈夫よ、受けてみたら?と言われたからなのだったが、受けてみてとんでもない学部であることが分かった。受かるはずはない。その学生さんは、アメリカの高校を卒業していたから、それだけの英語力があったから受かったのである。
芸大の受験日は、今考えると、ベーチェット病の発作が始まり、熱っぽくてだるくてしょうがなかった。試験を受ける教室に入る前に受験生は一列に並んでいた。受験生が多いので、その列は階段まで続いている。階段で待ちながら、煙草を吸う学生が何人もいて、煙が漂っていた。二十歳過ぎの浪人生もたくさんいたわけで、美術を目指す学生はみんな煙草を吸っていた。女子学生も吸っていた。それが普通だった。学生たちは携帯灰皿を使っていて、それがかっこよく見えた。
東京芸大は当然のように落ちた。次に受けた上智の英語学科は、英語の試験は、お、できたかもと思ったが、問題がものすごく多くて、最後の問題を書き終えたときに終了ベルが鳴った。いけると思った気持ちは次の日本史で粉々に砕け散った。日本史の何も知らないということが分かっただけであった。あとは上智国際学部が残っていたので、そこに一縷の望みをかけたのだったが、そこでも惨敗であった。試験当日は山形東高の卒業式の日だったのだが、卒業式に出ている場合ではなかった。必死だった。試験の課題は二つだけだった。一つ目は論文(エッセイ)で、ジミー・カーターについて述べよというものであった。え?そんなの書けるわけがない。日本語でも書けない。ジミー・カーターはのちにアメリカ大統領になるわけだが、当時はどこかの州知事だったと思う。有力な大統領候補だったので、どう思うか書けということだったのだろう。一行も書けなかった。当然である。英語力のモンダイではない。次の課題はヒアリングだった。「これからラジオのニュース番組を流します。聴き取った言葉を紙に書き取ってください」と言うのだった。「全部書き取るのは難しいと思います。聴き取れた部分を、単語だけでも結構ですから書いてみてください」と試験官は英語で説明するのだった。配られた白い紙はほとんど白いままだった。周りを見渡すと、日本人も少しは居たが、ほとんどは外国人だった。わたしは場違いな所に座っていた。
ほうほうの体で山形に逃げ帰ってきたわたしは、浪人させてくれと親に頼んだ。
父親の実家では伯父が理容店を営んでいた。聞くところによると、江戸時代には髪結いをしていたらしい、歴史のある理髪店なのだった。その伯父が、東京に理容室をやっている知り合いがいるから、まさみの住むところを探してもらおうと言ってくれた。
四月、東横美術研究所での一年が始まった。ところが東京に出て来た途端にいつもの熱が出て、寝たきりになって起きられなくなってしまい、最初の一週間は研究所に行くことができなかった。どんなにがんばっても頭の中が空洞になってしまったようで身体を縦にすることができなかったのだ。顔を出さなくては、と焦るのだが、どうしようもなかったのだ。一週間寝たきりといっても言葉の通りに寝たきりでは生活できないわけで、何度か食料の買い出しに外に出なくてはならない。ふらふらする足どりで近所を散策したり、アパートの中を徘徊したりして、自分が生活する身辺を確認する作業も怠らなかった。
アパートであるが、伯父の知り合いの理容室が中野区にあり、そこのご主人がアパートを探してくれたのだが、たしか高田荘といったのではなかったか。中野区上高田にあったから高田荘といったはずである。アパートというのはそのネーミングでだいたいのランクがわかる。○○アパート、○○コーポというのは立派な建物という訳にはいかないが、なんとか普通に住めるところで、○○ハイツというのはちょっぴり高級感がある。○○荘というのはランクでいうと最下位になるだろう。
藤子不二雄Aの『まんが道』を読むと、手塚治虫をはじめとする漫画家たちが住んでいたトキワ荘は、階段を上がるとギシギシという音がしたそうだが、トキワ荘と同じ木造二階建ての高田荘もやはりギシギシと音がした。わたしの部屋は十室ほどある二階の真ん中にあった。トイレは共同で、お風呂はなかった。四畳半の畳敷きの部屋からは、隣の家の庭が見えた。ドアを開けると板敷の半畳ほどのスリッパを脱ぐスペースがあり、その奥にやはり半畳ほどのスペースに流しとガスコンロがついていた。冷蔵庫はなかったので、食材は買ったその日に調理して食べなければならなかった。近所にスーパーがあり、買い物をして安い食材を仕入れた。スーパーの向かいに銭湯があり、そこで汗を流すのが楽しみだったが、銭湯代を湯水のように使うことはできなかったので、二日に一回か三日に一回で我慢した。
アパートを探してくれた伯父の知り合いのおじさんは、中野駅から歩いて10分ほどのところにある薬師銀座商店街に理容室を構えていた。わたしの父は一番安いアパートを探してくれと頼んだはずである。父親からの生活費は現金書留でその伯父さんに送られてきた。どれくらい送金してくれたのかよく覚えていないのだが、月に5万か6万円くらいだったような気がする。そのうち2万円くらいが家賃で、残りが生活費になるわけだが、理容室のおじさんは10日に一回取りに来なさいと言うのだった。10日に一回、一万円ずつ渡して貰っていたのだ。まさみに全部渡すと全部使ってしまうかもしれないから、少しずつ渡してくれと、父からの差しがねだったのだろう。お金をもらいに行くと、理容室の奥の自宅に入れてくれて食事を出してくれた。ありがたかった。
高田荘は薬師銀座から歩いてさらに10分くらいかかったので、中野駅からは20分くらいかかった。上高田は中野駅よりも西武新宿線の新井薬師駅のほうが近かったし、電車代も安かったはずなのだが、自由が丘には中野駅からの経路を選んだ。当時JRはまだ国鉄と呼ばれていたころだったかなあ。地方の人間というのは国鉄しか知らないといってもいいだろう。国鉄に全面的信頼を置いていて、私鉄などというものの存在を認めていない。地下鉄なんてどこをどう走っているのかさえ分からないのだ。国鉄中心主義なのである。研究所のある自由が丘は東横線という私鉄沿線にあるので仕方なく利用するが、地方から出て来たばかりの10代の男は、山の手線と中央線しか知らないのだった。
一週間休んだあとで研究所に顔を出すのは気おくれがしたが、どっちにしても行くしかないわけで、中央線で新宿に出て、山の手線に乗り換え渋谷まで行き、東横線で自由が丘駅に降り立つのである。東横線は私鉄だが、研究所は私鉄沿線上にあるので、それに乗る以外に方法はないのだった。こうしてなんとか研究所生活が始まった。
研究所は三階建ての小さなビルで、一階が油画、二階が日本画、三階がデザインの教室になっていた。地下に三畳くらいの狭い部屋があり職員室になっていて、先生たちはそこにたむろしていて、いつも煙草の煙が充満していた。山形の仙仁先生が紹介してくれた佐藤全孝先生に挨拶をしにいった。そのとき初めて全孝先生が山形東高の卒業生であることを知った。先輩だ。聞くところによると、全孝先生は、四浪か五浪して東京芸大に入り大学院まで出た。それから予備校の先生をやるようになったのである。鍛えられてきたのである。だから授業も厳しかった。特にデッサンに関しては口うるさいのだった。
研究所の授業は、午前中3時間がデッサンで、昼休み1時間を挟んで午後の3時間は油絵を描いた。モチーフは人体と静物。3時間デッサンをして3時間油絵を描くと、夕方に眼が霞んできて焦点が合わなくなる。人体のときはもちろんヌードもあるわけで、モデルさんが若い女性だったりすると、若い男のわたしはどぎまぎして落ち着かなくなる。しかし、慌てふためいてばかりはいられない。全く動じない振りをして木炭や鉛筆を走らせるのだった。ヌードデッサンをやったことのある人はわかるだろうが、モデルに目が釘付けになってしまうと描けなくなる。モデルは人間ではなく物体であると見做さないと描写することができないのだ。だから、描き進めるうちにヌードはヌードでなくなる。面白いもので、最初の日は驚き興奮したりするが、二日目は慣れる。三日目は飽きるのだ。
作品は月曜から金曜までに、午前のデッサン、午後の油絵をそれぞれ一点ずつ仕上げなければならない。土曜日は講評会といって、でき上がった作品を全員分並べて先生方が批評するのであるが、これがけっこうシビアな時間になる。イーゼルを2段掛けにして作品を並べるのだが、一点ずつ点数をつけて、その順番に並べていくのだ。誰が一番で誰がビリであるのか一目瞭然なのである。これだけでかなりのプレッシャーなのだが、さらに先生たちの厳しい指導、というか叱責の砲撃を受ける。あるときこんなことがあった。なかなか技術的に上達しない女子学生がいたのだが、ある先生がその子にこう言った。
「お前さ、明日から来なくていいから。どんなにがんばってもモノにならないから諦めな。もう来なくていいぞ」
女子学生は号泣しながら
「来ます!」
と叫んだ。
これは先生のギリギリの賭けに出た指導であり、愛情でもあったのだと思う。
佐藤全孝先生は特にデッサンに関してはとてもうるさく、厳しいことを平気で言った。いつも下から数えたほうが早かったわたしは首をすくめていた。この全孝先生は、35年後、わたしがギャラリーを開いたときに訪ねてくれて
「吉岡君、ぼくの作品を見てもらえないかな」
と真剣な顔をして言うのだった。冗談でものを言う人ではなかったので、わたしはびっくりして恐縮した。それからわたしのSteps Gallery で毎年個展を開くようになったが、2020年、癌のため亡くなられた。
講評会でいつも一番を取っている生徒がいた。デッサンも油絵も抜群に上手かった。名前を津田雅子(つだのりこ)といった。制作しているときの姿勢がよかったのを覚えている。後年の永野のり子である。彼女もわたしのギャラリーで個展をするようになるのだが、当時は畏れ多くて話をすることもできなかった。先日、永野のり子と東横時代の話をして、わたしが
「東横の時はさ、ほとんど話したことなかったよね。オレ話しかけられなかったし」
「なに言ってんのよ。話いっぱいしたでしょ。これ、オレが作ったとか言って詩を見せてくれたりしたじゃん」
「え!!そうだっけ?」
げげ、恥ずかしい。詩を見せられた彼女はさぞかし面倒くさい奴と思ったであろう。若いということは恥ずかしいことなのである…
さて、当時の食料事情について思い出してみる。10日に一度1万円を受け取りに薬師銀座の理容室に行くというシステムだったのだが、節約を心掛けないとすぐに窮乏してしまうので、お金は慎重に使わなくてはならない。
朝ご飯は、中野駅北口にある立ち食い蕎麦屋さんで天ぷらそばを食べた。毎日食べた。立ち食いにしてはかなり美味しかったので飽きなかった。温かい蕎麦には唐辛子をかけるものだが、中野駅前の立ち食い蕎麦屋では丼に山盛りのすりおろし生姜が用意されていた。生姜は冷たいうどんには合うが、蕎麦はどうなんだろうと首を傾げながら食べてみると、あら!美味しいかも、天ぷらの油を生姜の爽やかさが消してくれるのだ。
昼はどうしたかというと、パンを持って行って食べた。2枚の食パンの間にジャムを挟んで持って行った。研究所にあった自動販売機で飲み物を買った。食べる場所が用意されているわけではないので教室で食べた。教室にはテーブルはなく、イーゼルと椅子が並んでいるだけなので、デッサン用の小さい椅子に腰掛けて食べた。余裕のあるときは、自由が丘の駅前に出て、自由が丘デパートの2階にあった中華料理屋さんで餃子定食を食べたが、これは贅沢と言えた。あるとき、餃子定食を食べていた時に店のテレビで、アントニオ猪木がモハメッド・アリと戦っているのを見た。異種格闘技戦だ。猪木が仰向けに寝てキックで戦っていたが、なんだかもどかしい。試合は途中だったが、昼休みが終わりそうだったので店を後にした。
夜ご飯は自分で作って食べた。ご飯を炊いて、おかずには目玉焼きか納豆が定番だった。一番安いタンパク質補給源である。肉系が食べたくて近くのスーパーを覗くこともあったが、普通の肉よりも安い鶏皮を買い、炒めて塩コショウで味付けをした。おかずを買う余裕のない時はインスタントラーメンのお世話になった。生卵を落して少しでも豪華になるようにした。薬師銀座の理容室のおじさんからお金を受け取った帰りは、定食屋に寄ることもあった。豚カツ定食が何よりのご馳走だった。豚カツ定食は350円だったと思う。なかなか食べられなかった。ソースをたっぷりかけて豚カツを味わう時間は至福の時だった。豚カツを食べる余裕がないときはアジフライ定食にすることもあった。250円だった。それ以外の定食は食べたことがなかったので覚えていない。
ある日、気がつくと財布の中にお金が数十円しかなかった。薬師銀座の理容室に仕送りが届くまでに3日あった。どうしたらよいだろう。食材も底をついている。どうしようもない。何も食べずにひもじい3日間を過ごした。3日間食べなかったというのは後にも先にもこのときだけだった。3日経ってようやくお金を受け取りに行った。お腹は空いてたが、3日食べなくても死ぬことはないと身体で覚えた。お金を受け取ったら豚カツ定食を食べに走り出すところであるのだが、なぜかその日は中華料理屋さんに入り、冷やし中華を注文した。なぜ冷やし中華だったのか自分でも謎だった。暑かったのだろうか。
そんな食生活を送りながら、研究所の方も、なんとか慣れて制作に専念できるようになってきた。午前のデッサン、午後の油絵制作を繰り返す。
作品制作に関して研究所で新しく覚えたことが二つある。一つは木炭の芯抜きである。木炭デッサンで使う木炭は、真ん中に芯が残っている。芯は外側に比べてかなり硬く、そのまま描くと紙に引っ掛かりガリガリと紙を傷つける。だから芯を抜いておく必要があるのだが、専用の芯抜きも画材屋に行くと売っている。ただの針金だが、曲げても形状記憶しているのか、もとに戻る。これを木炭の先からねじ込み中の芯を掻き出す。この芯抜き用の針金よりもさらに使いやすいものを教えてもらった。ギターの弦である。クラシックギターではなく、フォークギターの弦。金属製の弦に細かいギザギザが入っているので、木炭の芯を取るのに具合がいいのだ。「わたしは煙突そうじ屋さん」と歌いながらやると気分が出る。もう一つは筆の洗い方である。油絵用の筆は普通は筆洗に揮発性のシンナーに近い油を入れて、使い終わった筆はその中に入れて洗う。洗い終わったら布でよく拭いとる。油が残っていると筆の劣化が進み寿命が短くなるのだ。研究所では、布で拭いた筆をさらに石鹸で洗うように指導された。固形石鹸を一個用意して手に持ち、筆先を石鹸の真ん中に押し当てて、水をつけながらぐるぐる、「の」の字を書くように回す。泡が出てくる。ある程度続けたら、今度は筆の穂先を指で挟んで揉み洗いする。水で濯いで布でふき取って終了。こうすると筆は長持ちするのである。石鹸は使っていくうちに、真ん中に穴が開く。
午後の油絵の制作が終わるのが午後4時。あとかたづけをして研究所を出て自由が丘の駅から中野駅に向かう。寄り道はしない。寄り道している心の余裕がない。高田荘の部屋に戻ると、夕飯の買い物をして銭湯に入り、夕飯を作って食べ終わると、あとはすることがない。時間はたっぷりあるわけで、もて余してしまう。テレビでもあればいいのだろうが、テレビもラジオもない。暇である。夜の長い時間をどうするか、というのが喫緊の課題なのである。こういうとき人は酒を飲みに行く。「どうしようもない淋しさに 包まれた時に 男は酒を飲むのでしょう」と河島英五も歌っている。ところがわたしは酒を嗜まない。飲めないのである。わたしの父は大酒飲みで、一日一升ほど飲んだ。親戚のおじさんおばさん連も酒豪揃いで、親戚が集まった宴会などではビール瓶、一升瓶がごろごろ並んだ。それを見て来ているからかどうかわからないが、わたしはからっきし飲めないのだった。飲めたとしても、酒場に行くお金がなかったわけだから、どっちにしても行かなかったわけだが。
新井薬師駅前におもちゃ屋さんがあるのを見つけて中を覗いてみた。銀玉鉄砲がないかなあと棚を探すと、すぐに見つかったので、一丁購入する。箱に入った予備の玉も買って、さっそく部屋に帰って試し撃ちしてみた。小学生のころ銀玉鉄砲で撃ち合いをして遊んだころの記憶が蘇ってきた。マッチ箱や鉛筆などを壁に沿って並べて撃った。なかなか当たらないが、鉄砲というものは数撃ちゃ当たるので、パコっと音がしてマッチ箱が倒れると一人で、おお!と歓声を上げる。誰も褒めてくれないので、自分ですごい!と褒めて喜ぶ。すぐに飽きるかなと思ったが、けっこうはまってしまい、何日も楽しんだ。
新井薬師公園の中を一人で走ったりもした。受験生は体力もつけておかなくてはいざというときに参ってしまう。中学校のときに体育の先生が、若い時に走り込んでおくと、年を取ってから生きてくるのだ、と教えてくれたのを思い出した。夜遅く、公園の街灯の光を頼りに何周も走った。
休みの日には、中野駅前に行って時間をつぶすことが多かった。北口のサンモールとブロードウェイをぶらぶらした。本の明屋(はるや)で文庫本を漁って、安い文庫本を手にして喫茶店 tomorrow でアイスコーヒーを注文して窓側の席に座った。二階の席は中野駅改札口の真ん前にあったので、駅に入って行く人や出てくる人を眺めていると飽きなかった。中野サンプラザにも出入りした。コンサートホールやレストランなどがあったが、わたしはもっぱら、「ふるさとコーナー」に足を運んだ。4階にあった。サンプラザは正式名称を全国勤労青少年会館という。地方から出て来て東京で働く青年たちの憩いの場として作られた複合施設なのだった。わたしは勤労はしていないが、地方から出て来た青少年であるわけで、ふるさとコーナーに入る資格がある。しかもこのコーナーをもっとも必要としている一人なのだ。ここには北海道から沖縄まで全国の主要新聞が一週間分ずらーっと並んでいて広い壁全部が新聞用の棚だった。山形新聞を曜日順に読んでいった。特に山形に関する記事は丹念に調べた。自分の知っている身近な場所の情報はむさぼるように読んで、ほほう、そんなことがあったのかと驚きながら、懐かしんでいた。東京に出て来てからまだ3、4か月しか経たないのに望郷の念にとらわれていた。「詩壇」を眺めて、これも懐かしいなどとつぶやいていたのだ。弱虫なのである。同じフロアのガラス窓沿いにジュークボックスが並んでいた。歌謡曲を中心としたレコードを聴くことができた。一曲30円だったか50円だったか、どちらにしても勤労していない青年にはきつい出費だったが、どうしても聴きたい曲があって、そればかりを何度も聴いた。サンディーという女性歌手の「グッバイ・モーニング」という歌だ。お金がないのに2回も3回も聴いた。毎週繰り返して聴いていた。歌詞のなかに
「明日はすべてが変わるだろう/新しいはじまりさ/朝焼けが窓を染めたなら/君に告げよう、グッバイ・モーニング」
というフレーズがあり、サンプラザから見える中野駅前を見ながら、その歌詞を小さな声で歌った。
ある日、研究所で、全孝先生がわたしを呼んだので、紫煙が立ち込める地下の職員室に降りて行くと、先生は
「今度、おれん家に遊びに来いよ」
と招待してくれた。
次の日曜日に電車を乗り継いで先生の家に行った。高田荘に比べたら立派なアパートだったが、高級アパートというのでもなかった。全孝先生の年譜を見ると、1943年山形県生まれとあるので、当時はまだ33歳だったはずだ。芸大を出て4年しか経っていない。研究所の先生の給料だけでは高級アパートには住めなかっただろうということは想像がついた。何を話したか覚えていないが、奥さんが昼ごはんにスパゲティーナポリタンを作って食べさせてくれたことは覚えている。当時ろくなものを食べていなかったこともあって、スパゲティーナポリタンってこんなに美味しいんだ!と感激した。広くはない部屋の本棚には画集などの本がぎっしり並んでいた。そのなかにパスカルの『パンセ』があったことも記憶に残っている。
夏休みになった。夏休みは山形に帰ったか、帰らなかったか覚えていないが、帰らなかったような気がする。夏季講習があったが、それには参加しなかった。宿題が出た。50号の油絵を一点制作せよ、というものだった。研究所では普段は8号、10号程度の小さいキャンバスに油絵を描いていた。もちろん受験でも小さいサイズの作品を描かなければならないからである。たまには大きなキャンバスに描いておくことも必要だろう、と先生たちは考えたのではないだろうか。さっそく50号のキャンバスを購入して高田荘に持ち込んだが、50号というのは縦が1メートル以上あり、四畳半の部屋に立てかけると巨大な画面になるのだった。部屋の中で描くので、モチーフは部屋の窓と窓から見える家と庭を描くことにした。中野の四畳半の部屋は、なかなか絵として成り立たず苦戦した。本当はモチーフのせいではなく自分の能力がないだけだったのだが、マチスの「ニースの室内」からは程遠く「俺の部屋」になってしまった。筆が止まった。ダメだ。もういいや、と投げ出し始めたときに、O君から連絡があった。いっしょに斎藤茂吉の歌碑めぐりをしたあのO君である。「今度Sと三人で飲もうぜ」という。当時はどうやって連絡をとっていたのだろう?今ならケータイかスマホで簡単にやりとりできるわけだが、あの当時は固定電話を持っているやつはいなかったから、たぶんハガキで相談していたのではないかな。のんびりしているのだ。別に不便とも思わなかった。S君というのはやはり中学校の同級生で、電機大かどこかに通っていて、東中野に住んでいた。彼の部屋で宴会をやろうというのだった。
S君の部屋は高田荘とどっこいどっこいで、四畳半風呂無しトイレ共同も同じだった。三人で買い出しに出かけた。ビールとウイスキー、焼き肉の食材を買った。お金を出し合ったのだが、三人とも貧乏だったので、肉は半分を挽肉にした。挽肉は小さいピンポン玉くらいの大きさに丸めて団子状にしたものをつぶしてミニハンバーグを拵えた。S君は当時にしては贅沢なホットプレートを持っていて焼いて食べた。ミニハンバーグも焼き肉のたれにつけるとなかなか美味かった。S君は中学時代は卓球部だった。高校の時も卓球をしていたようだが、大学生になって卓球をやめてテニスを始めた。
「卓球じゃぜんぜんモテないんだよ。やっぱりテニスだね」
と言っていたが、彼女がいるわけでもなさそうだった。
「二階が新婚さんでさ、毎晩あの声が聞こえてくるわけよ。眠れないんだよなあ」
われわれはビールからウイスキーに移り、酒量は増えていった。飲み過ぎたのか、O君の顔は蒼ざめてきて、しばらくするとトイレに駆け込んで、ゲーゲー吐いていた。水で流すときに力を入れ過ぎたのか、ひも状の鎖を切ってしまい、水のタンクを壊してしまった。昔の水洗トイレはタンクが天井に着いていた、水を流すときには、そこから出ているひも状の鎖を引っ張る仕掛けになっていた。われわれは壊れたタンクは放置したまま深夜まで飲み続けた。二階から「あの声」は聞こえてこなかった。眠くなった奴から寝てしまった。
朝焼けが窓を染めたのにも気がつかず、目が覚めたのは太陽が高々と上がった昼近くだった。
「朝飯食いに行こうぜ」
とS君が近所の喫茶店に連れて行ってくれた。モーニングサービスのトーストとアイスコーヒーで遅い朝食を食べた。熱いおしぼりが出てきたので、それで三人は顔をごしごし拭いた。
12月になって、中野区から成人式の案内が届いた。わたしは今年二十歳になったのだった。住民票を山形から東京に移してあったので、成人式は東京から案内が来たのだった。会場は中野サンプラザである。なんか規模の大きそうな式だったが、わたしは行かなかった。浪人生だったので成人式という華やかな場所には近づけないような気がした。山形なら友達もいっぱい集まるだろうが、東京では知り合いは誰もいない。そういえば、同じ中野区在住のS君は行ったのだろうか。スーツのようなよそ行きの服も持っていなかったので、遠慮せざるを得なかった。
受験日が近づいていた。研究所はだんだん張り詰めた空気が支配し始めていた。芸大は風景画が課題の出るかもしれない、という噂があった。研究所では、急遽近くの公園に絵を描きに行くなどという授業も組まれた。
芸大は落ちた。二年連続で落ちた。佐藤全孝先生は、
「オレが芸大入れてやるからもう一年浪人しろ」
と言ってくれたのだが、わたしは次に東京学芸大学を受けることにしていて、もし学芸大に合格したら浪人はしない、と決めていた。
東横線に学芸大学という駅があったので、ここに大学があるんだと思っていたら、そこは昔大学があったが、今は武蔵小金井にある、ということを入試の志願書を出すときに知った。迂闊である。学芸大学は教育学部だけの単科大学で、卒業するとみんな教員になるのだった。わたしは教員にはなりたくないと思っていたが、とりあえず絵が描けるならどこでもいいや、あとは入学したら考えよう。入学できなかったら、もう一年東横美術研究所に通うことになるだろう。
学芸大学の試験は国語と社会、理科、英語の4科目だった。数学がなかったので受験することに決めたのだ。実技は鉛筆での簡単なデッサンとデザインだけだったので、これならもう研究所に行く必要はないなと考えた。社会は日本史を選んだ。前年の上智大の試験で痛い目に遭っているので、これは勉強しなくてはならない。日本史をなんとかするために、法政大学のO君に手伝ってもらうことにした。日本史の教科書から問題を出してもらってわたしが答えるということを徹底してやってもらい暗記するのである。
O君は、市ヶ谷にあるビルの管理人をしていた。朝に見回りをして、そのあと大学に行き、帰って来てまた見回りをするという仕事だ。時間通りに見回らなければいけないので、行動制限がかかるわけだが、バイトとしては楽だったのではないだろうか。小さな管理人室もあり、そこに寝泊まりしていたので、家賃もタダだったのである。管理人室は10階建てほどのビルの地下にあった。機械やらボイラーやらが並んでいる片隅にO君の部屋はあった。狭い。天井が低い。畳の上に立ち上がると頭がつかえた。高田荘よりもさらに狭く、3畳くらいのスペースに机や本棚やらが並んでいて、空いた隙間に布団を敷いて寝るのである。二晩泊まった。○○コーポや○○ハイツからは程遠く、○○荘というのも憚られるつくりで、監禁部屋という言葉が頭をよぎった。
日本史の教科書を持って行って、その中から問題を出してもらった。教科書には太文字で書かれた歴史上の人物や出来事などが並んでいるが、そこを出題してもらい、正しい答えを言う。できるまで何回でも繰り返す。こういう方法で、わたしはすべての太字を暗記した。完璧である。夕食はビルの中にある食堂で食べた。彼は職員なので安く食べられた。わたしも安くしてもらう。食事を運んできたのは可愛い女の子だった。厨房に戻っていく彼女の後姿を目で追いながら、
「あの子さ、オレのこと好きだと思うんだよ」
と何の根拠もなくO君は自信ありげに言うのだった。
学芸大学の試験日は迫っていたが、高田荘に戻ったわたしは薬師公園を無闇に走った。
「明日はすべてが変わるだろう」と歌いながら。
次の日、研究所で絵を描く必要もなかったはずなのだが、わたしはいつものように中野駅から電車に乗って自由が丘に向かった。
2024年 1月