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砂中

砂中

吉岡まさみ

 東京都江東区立砂町中学校。校門を入ると、右側に体育館があり、コンクリート通路の先に三階建ての校舎があった。公立学校によくある、特徴のない建物だが、よく見ると窓ガラスが割れていた。一階から三階まで、すべての窓のガラスが無くなっていて、アルミサッシの枠だけが残っていた。ああ、なるほど、噂どおりの学校らしい。

 校長室に通されて、校長先生から学年主任の先生に紹介された。わたしは3年生の副担任ということになっているらしい。主任は牛丸教子(うしまるのりこ)先生といって、数学担当の頭の切れる人だった。同じ学年の先生たちに紹介されたあと、職員室に通されて、

「ここが吉岡さんの席だよ」

と若い男の先生が2列に向かい合わせに並んでいる机のいちばん端に案内してくれた。隣にいた古株らしいいかつい感じの男の先生が、

「ここはこの間まで芸大を出た女の先生が座ってたんだよ。一年で辞めちゃった。可愛い先生だったんだけどね」

と言う。

 東京都の教員採用試験のとき、面接官がわたしの提出していた顔写真を見て

「この髭はどうするのかな?」

と質問してきた。大学時代はずっと口ひげを伸ばしていて、願書に添付する写真は髭のあるままのものを貼り付けていたのだ。

「合格したら剃ります」

と答えたらウケた。

 都の試験は合格した。次に、配属される区を指定されて、区の面接があった。わたしが向かったのは江東区だった。

 区の面接では驚くことばかり訊かれた。

「生徒数人に凄まれて取り囲まれたら、あなたはどうしますか?」

というような質問が矢継ぎ早に放たれるのだ。何て答えたか覚えていない。とにかく焦った。教育論のような質問を予想していたのだが、当時の学校はいわゆる校内暴力が猛威を振っていて、それどころではなかったのだ。

「なにか武道はやっているかね?」

「いいえ」

「何かやっておいたほうがいいね」

「この髭はどうするつもりかな?」

「はあ…」

「伸ばしなさい。髭は伸ばした方がいいぞ」

 わたしが行くことになった学校は砂町中学校だった。砂中と呼ばれているらしい。

 面接を終えた新卒の先生たちがいる控室で、わたしに

「どこの中学に決まったの?」

と訊いてくる先生がいたので、

「砂町中学校です」

というと、その人はぎょっとした顔をして

「砂中!?」

と大きな声で言った。周りにいた人たちも振り返ってわたしを見た。

「そうなんだ、大変だねえ…」

砂中は有名らしい。他の先生たちは、事前に江東区の中学校の情報を集めて、砂中だけは行きたくないと考えていたらしいのだ。

 3年生は9クラスあって、わたしは9組の副担任になった。担任の先生は勝又先生といって生活指導主任だった。やくざ顔といっては失礼だが、大柄の迫力のある人だった。生徒は勝又さんと呼んでいた。生活指導主任のクラスだったからか、「大物」の生徒が何人もいた。髪はリーゼントで眉毛はない。歯も何本か欠けている。短ランと呼ばれている学生服を着て、ポケットに手を突っこんで斜め下から人を睨みつける。ビーバップハイスクールの実写版のような猛者たちは、勝又先生のことを「勝又さん」と呼ぶのだ。先生とは呼ばない。この生徒たちに「さん」付けで呼ばれるようになったら一人前なのである。○○先生と呼ばれているうちはまだダメなのだ。

 あるとき、廊下でガムを噛んでいる生徒がいたので注意をすると「噛んでないよ」という。しかし明らかにガムが口の中にあるのが分かったので、「出せ!」と言ってわたしは彼の口元に手のひらを差し出した。ここでひるんではいけないのである。しばらくして口からチューインガムをぽろっと出した。わたしはそれ以上なにも言わないでそこを離れた。

 職員会議中でも、生徒同士のケンカの情報が入ると、会議は中断されて、教員は手分けして「現場」に駆けつける。他校の元気のいい奴らが集まってくる前に到着してなんとか間に入ってやめさせなければならない。

 オートバイを盗んだ生徒を引き取りに城東警察署に行った。万引きで捕まった生徒の引き取りにも行った。城東警察は「行きつけ」の場所になった。

 放課後、グランドで陸上部の練習を階段に座り込んでぼうっと眺めている二人の女子生徒がいた。目がうつろである。「おう、どうした、なにしてる?」と話しかけると、「ひまだから」と答える生徒の呼気からシンナーの臭いがした。わたしは「そっか」と言うしかなかった。

 古株の先生は、

「ここは殺人以外は全部あるよ」

と教えてくれた。以前は、廊下をバイクで走り抜けたやつもいたそうだ。いちばんあぶないのは、地元の暴力団とつながっている生徒だ。校内暴力の暴力がモノにではなく人に向かってくる。女の先生に向かう場合もあるから気が抜けない。

 わたしは夏休みが来る前に胃に穴が開いた。なんだか胃が痛いなあと思って病院に行ったら「胃に穴が開いてますねえ」と言われた。小さな穴だったので、薬を処方されただけだった。薬を飲み続けたら次第に痛みは治まった。

 初めて給料をもらった。4月の給料は前月の分も入っているから、4月の給料は少ないよ、と先輩教員が教えてくれた。5月の給料から普通の額になる。会社員をしている友人は、最初給料もらったときは、え?こんなにもらっていいの?と思ったそうだ。それは学生が手にしたことのない大金であったのだ。わたしも5月の給料をもらったときは驚くかなあと思っていたのだが、実際に給料袋開けてみると落胆した。これだけ?というのが正直な気持ちだった。教員の初任給は、同年代の会社員に比べると多い。少ない額ではないはずだが、わたしは肩を落した。朝から夜までこんなにがんばって苦労したのに、それに見合わないと感じたのだ。荒れている学校の先生の給料はもっと高くてもいい。その後、仕事に慣れてペースがつかめてくると給料はそれなりかなあと意識が変わってきたのだが。

 当時わたしは西武新宿線の中井駅近くのアパートに住んでいた。大学時代は所沢に居たのだが、教員になって江東区勤務になったので、都内に引っ越したわけである。朝は中井駅から新宿線で高田馬場に出て、山の手線に乗り換え新宿で降りる。中央線各駅停車にまた乗り換えて亀戸駅まで行くのだ。亀戸からはバスに乗るのだが、時間がない時はタクシーに乗った。亀戸駅の立ち食い蕎麦が朝食だった。昼は給食があったので助かったのだが、夕食が問題だった。仕事は遅くまで続いたので自分で食事を作る余裕がない。ほとんど近所の定食屋さんで食べたのだったと思う。先輩たちが飲み会に誘ってくれることも多かった。週に1・2回は連れて行ってもらった。男の先生ばかり5・6人連れだって亀戸に繰り出した。亀戸周辺のお店を片っ端から踏破していった。いちばんの行きつけは「ときわ食堂」だった。昼は定食屋さんだが、夕方から飲み屋に変わった。安くて美味しい。刺身の皿を散らかしたり、焼き鳥の串を数えたりした。冬は鍋をつついた。

「吉岡さん、食べまい食べまい」

と言ってわたしの小鉢に海老や豆腐や白菜を取り分けてくれるのだった。話は学校のことと教育論だ。

「いいか、仕事は自分のことだけやっててはだめなんだ。ほかの先生の仕事を奪う気でやれ」

「困っている先生が居たら助ける。仕事が大変で手が回らない先生が居たらその分をお前がやれ」

 こういうことだ。それぞれの仕事分担があるが、仕事と仕事の間に隙間を作ってはいけないのだ。空いたところは周りの人で埋めていく。そうしないとチーム全体が崩れていくだろう。個人の先生のためを思ってやるのではない。チーム全体を考えてやるのだ。仕事を奪え、とはそういうことである。組織論である。

「仕事は力を出し切っちゃだめなんだ。全力を出さないこと。70パーセントぐらいでやりな。いつも100パーセントで走ってると、いざというときに役に立たないんだ」

 飲み会がお開きになって、支払いの段になって、割り勘だからいくらになるか分からないが、わたしが財布を出すと先輩は

「バカ、財布なんか出すんじゃねえ」

と言ってみんなでわたしの分も出してくれるのだった。

申し訳ないと言うと

「いいか、何年かして後輩ができるだろう?そうしたらそのときはおまえがおごってやれ」

 わたしは一年間、一度も飲み会の代金を払ったことがなかった。

 夏休みになった。プール教室というのがあって、生徒を学年ごと、男女別に分けて一週間ほど泳がせるのである。指導は体育の教員がやるのだが、体育以外の教員も動員される。体育以外の先生たちは、泳ぎの指導はしないで、プールサイドで監視するだけである。水に入る必要がなかったので、わたしはほっとした。泳げないからである。

 わたしが卒業した東京学芸大学は、教員養成大学ということもあって、学生全員に水泳の能力を求めた。50メートル泳げないと卒業できないのだ。試験がある。泳ぎ方は何でもいいから、途中で止まらず、足をプールの底に着くことなしに泳ぎ切らなければならない。クロールはおろか、平泳ぎもまともにできなかったわたしは背泳ぎを泳法として選んでテストに臨んだ。背泳ぎならなんとか水に浮いていることができたからだ。

 試験当日は小雨が降っていた。試験官はプールサイドで見ているのだが、雨のために水面が波立つのでよく見えないかもしれない。これはわたしにとって好都合であった。ひょっとしたら足をプールの底に着いたとしてもそれをチェックできないのではないか。いよいよスタートである。背泳ぎは飛び込まなくていいので嬉しい。プールサイドの壁をキックして泳ぎ始める。雨が口の中に入る。雨のために視界不良になる。とにかく夢中で腕を回し続ける。あ、下半身が沈んでいく。足が底に触れる。我慢できずに一瞬だけ立つ格好になる。しかし雨が味方しているので、試験官は気がつかないようだ。よし、このまま行っちゃえ。数回足を着いてしまったが、ごまかしてゴールした。途中で失格と言われることなく終わった。天は我に味方せり!

 こうしてわたしは大学を卒業したのだった。

 砂町中学校に赴任してからも、わたしは泳げないままだった。プール教室のあと、同僚の矢内先生に

「オレ、泳げないんですよねえ」

と小さな声で伝えた。水泳のコーチをお願いしたわけでもないのだが、大学時代は水球の選手だった矢内先生は

「ちょっと泳いでみてください」

と指導態勢に入る。彼はわたしと同じ学芸大学卒で社会科の先生だ。

 平泳ぎをやってみる。大きく腕で水を掻くのだが、何度やっても進まない。息も続かない。水を飲んでしまったりする。わたしの「泳ぎ」を見ていた先生は

「なるほど…… 吉岡先生、あのね、平泳ぎは腕を大きく掻いたらだめ。息継ぎするでしょ?そのときに腕をちょっとだけ下に押して、顔を上げるのを助けるだけ。腕で水は掻かない」

 ほほう。そうか。息継ぎは息を吸ってはいけないということも教わった。

「水の中で息を我慢してるでしょ?水の中では思い切り息を吐くんです。で、顔を上げた時に息を吸わない。吸わなくても空気は自然に入ってくる。意識して空気を吸うと、吸い過ぎて苦しくなるんです」

「腕の掻きで進むのではありません。キックで進むんです。キックして身体を一直線にしている時に進みます。何もしていないときに進むんです。だから、一直線になった時の時間が長い方がいい。なるべく一直線を保つんです」

 矢内先生はプールサイドで、わたしに言葉だけで指導した。

「水は友だち、水と遊ぶんですよ」

 わたしはあっという間に泳げるようになった。平泳ぎで進むようになったし、息継ぎも楽になって25メートルを泳ぎ切った。次の日のプール教室のあとにまた練習した。50メートル泳ぐことができた。クロールも難なくマスターした。水泳?泳げますけど何か?と大きな自信をつけたのだった。

 こういうのを本当の指導というのだなあと納得した。

 夏休みも終わり、授業がまた始まった。美術の授業はどうなっていたかというと、とにかく毎日が格闘だった。授業が始まっても生徒たちはおしゃべりを続けて先生の話などは全く聞かないのだ。授業というのは、最初の一言が肝心である。まず生徒の気を引きつけなければならない。「つかみはオーケー」にしなければならない。授業が始まると同時に、学級委員は「起立、気をつけ、礼」と号令をかけて挨拶する。この挨拶が邪魔である。わたしが考えて来た最初の「つかみ」の一言が、この号令で萎れてしまうのだ。教室に入るとすぐに、わたしは「でさあ、昨日の晩御飯なんだけどね」と生徒の意表を突く言葉で授業を始めたいのだが、それが難しくなる。

 いきなり話が変わって申し訳ないが、高校時代に習った英語の怖い先生のことである。山形東高の松木先生といえば、泣く子も黙る有名な先生だった。わたしたちが習ったときはもう退職されていたので、講師として英語を教えていた。早稲田大学では応援団長だったそうである。広島カープのファンだった。

 教室に入ってくると、学級委員が「起立、気をつけ、礼」とやるのだが、松木先生は、

「座れ座れすわれー!」

と叫ぶのだ。

「挨拶なんかしなくていい。無駄だ!」

と言いながら黒板に小さい字で動詞の活用について、と書きながら、

「でありますから、このbe動詞は…」

と前置きなしに授業を始めるのだった。

 ちょっとでも気を抜いているとチョークが飛んできた。チョークを入れる木の箱は20㎝くらいの大きさだったが、松木先生はその箱を生徒席に向かって投げつけたこともあった。そのときは教室中がチョークの粉で消防の避難訓練のような状況になった。噂では、若い頃は生徒の机の上を歩き回ったり、生徒の頭を齧ったりしたそうである。テストの答案用紙を返すときは、一枚ずつ点数を読み上げて、点数の低い生徒の答案は床に投げ捨てた。

 松木先生は、学校のトイレ掃除を一人でやっていた。

「東高の生徒はこれからの山形を、日本を担っていくのだ。そういう生徒にトイレ掃除をやらせるわけにはいかない」

と言うのだった。

 下校時間になって校門を出るときに松木先生といっしょになることがあった。先生は、教室では「挨拶なんかいらない」と言っていたはずだが、われわれが「さようなら」と言うと、先生も「さようなら」と言って、頭を深々と下げてお辞儀するのだった。

 さて、わたしの授業は一応あいさつをして始めるのだが、最初に「ウケる」話をしないと生徒は聞いてくれない。松木先生と同様、わたしも「気をつけ、礼」などというのは邪魔だと思っている。いきなり本論に入った方がインパクトがあるのだ。

 生徒は正直なもので、面白い話には反応するが、面白くないと感じたらそっぽを向く。これは砂中だから分かることで、荒れてないよい子ばかりの学校では分からないことだ。よい子たちは優しいので、面白くない話でも熱心に聞いてくれる。それはそれで助かるのだが、教員としては自分の話が面白いのかそうでないのか分からなくなるのだ。砂中の生徒を「こっちに向かせる」話を工夫しなければ教師として生き残っていけない。毎時間が勝負である。

 授業をして分かってきたことがある。生徒はどういう話をすると聞いてくれるのか。

「昨日のニュースでひき逃げ事故のことやってたでしょ」

「先生の友達で面白い奴がいてさ」

「夏目漱石が小説のなかでこんなことを言ってるんだよ」

「世界で一番長い河はどこでしょう」

と、こんなのは全部ボツである。生徒がこっちを向くのはこんな言葉。

「おれは、中学校では野球部だったんだけどさ」

「昨日、亀戸でかなり飲んだんだよね」

「実は先生は泳げない」

「世界でいちばん美味しい食べ物は蛸だと思う」

 この4例の共通項は何かというと、主語が「わたし」であることだ。生徒は、人から聞いた話や第三者の噂、時事問題、こういう話には興味を示さない。ところが、先生自身が自分の話をするとみんな話を止めて聞く態勢になるのだ。自分自身の体験、これがものを言う。

 それからこれは少々姑息な手段ではあるのだが、わざと小さい声で話す、というのも効果がある。教室中がざわざわとしていておしゃべりが止まらないときに、いちばん前に座っている数人の生徒にだけ

「今日の給食のゼリーは美味しいらしいよ」

などとどうでもいい話を小声で話す。後ろの方に座っている生徒には何も聞こえないはずだ。大声で話しているリーゼントン髪の生徒は、何だよ、何話してんだよ、聞こえないじゃん、と思っているはずだ。しばらくすると教室は静まってくるのだ。

 声を出さないというテもある。わたしはベーチェット病のために口内炎になる頻度が高く、口中に白い炎症が現れ、ひりひりした痛みが続く。ものを食べると痛く、しゃべるときも痛みが発生するので、うまく言葉が出てこない。そういうときには黒板にチョークで文字を書く。

「先生の口の中には口内炎があってしゃべることができません。今日は黒板に文字を書きます。連絡も授業も全部黒板に書きますのでよろしく…」

 文字を書くので、生徒がしゃべっていても困ることはない。生徒は黒板を見るだけでいいので、いくらおしゃべりをしていても生徒もわたしも大丈夫なのだが、不思議なことに、わたしが板書を始めると、教室はシーンと静かになるのだった。

 夏休みが終わると、2学期だが、11月に文化祭があって、文化部の出し物や展示の準備に入る。美術も生徒の作品を展示することになっている。わたしはここに立体凧を飾ろうと考えた。

 学芸大学でデザインを担当していた広井力(ひろいつとむ)先生にはデザインだけでなく「凧」を教わった。広井先生は彫刻家だったのだが凧の専門家でもあり凧の本も出しておられた。学芸大学美術科を卒業した学生は全員凧を上手に作ることができるはずだ。わたしも作ることができる。

 ヒノキ棒で骨組みを作り、透明ビニールを張り、そこにマジックで絵や模様を描かせた。3年生全員に凧を作らせて美術室に展示することにした。3年生は300人くらいいるので、全員分飾ると美術室が満杯になる。天井に針金を何本も張り渡してそこに凧を掛ける。大変な作業になる。砂中では運動会とか文化祭とかのイベントの前日は、若い先生は学校に泊まり込む。文化祭前も展示作業で泊まり込む。校長が気をきかせて夕飯に寿司を用意してくれたりする。同じ学年の先生たちが、

「吉岡さん、ちょっと休憩しなよ。職員室にお寿司があるよ」

と言ってくれるので、わたしはお腹も空いていたので職員室に戻って休憩した。お寿司が美味しかった。ビールも少し飲んだ。1時間ほど休憩しただろうか、さて、そろそろ展示作業を始めるかなと美術室に戻って入口の戸を開けると、用意した凧が全部針金に掛けられていた。展示が終わっていた。美術室の奥の方から先生たちが現れて、

「吉岡さん、やっといたから」

と笑顔で言うのだった。

 学年の先生の会議を学年会という。毎週一回開催されて、生徒の情報交換、行事についての打合せ、進路指導、生活指導についての相談などをする会議だ。生徒に直接関わる事案を検討するわけだから、重要である。学校には他に職員会議や分掌部会、教科部会などの会議があるが、実質的に一番重要なのは学年会である。と、わたしは悟ったのであった。学校組織というのは校長がトップにいて、その下に教頭、さらにその下に教務主任がいる。それから生活指導主任、ほかに庶務、研究などの主任がいて、学年主任の先生が各学年にいるのだが、これもわたしにすぐに分かったことなのだが、実質的に学校を動かしているのは学年主任なのだ。いちばん重要なポストなのである。わたしが所属していた3年生の学年主任は牛丸先生だったが、学年の猛者の先生たちを手際よく仕切って上手に運営していた。生徒の情報も細かくチェックし、一人ひとりをどう指導していくか、愛情をもって考えてもいて、わたしはいつも教えられた。何年か後に、転勤をして他の学校に移ってから、何か困ったことや、判断に苦しむようなことが起こったとき、「牛丸先生ならどうするか?」といつも自問したものである。

 仕事や部活の指導で帰りが遅くなる先生が職員室に大勢残っている。牛丸先生も学年主任として、やることがいっぱいあって遅くなることが多かったのだが、中学生の娘さんをもっていたので、周りの先生たちが「牛丸さん、早く帰って夕ご飯の支度をしなくちゃいけないんじゃないですか?」と声をかけると、「うちは今日もボンカレーよ」と笑いながら答えたりしていた。

 年度末は、次の年度の教員配置を決める時期になる。わたしの居た3学年は、次の年には新1年生の担当になるわけだが、これがどんな体制になるのかはわからない。基本的に校長と主任の先生たちで検討されることになるわけだが、わたしはこのまま今の学年に居られるかどうかわからない。体調不良で休むが多かったわたしは、ほかの学年に飛ばされるんじゃないかと気が気でなかったのだが、牛丸先生はわたしを呼んで、

「吉岡さんは新1年の担任をしてもらうから」

とおっしゃるのだった。

 わたしのクラスは1年5組だった。

 中学3年生はほぼ高校生である。卒業間近の生徒たちなんかは、「ワル」と言われる子たちでも、話をするとちゃんとわかる。もう大人なのである。話しが通じる。ところが入学したての中1は小学生と変わらない。子供である。可愛いところもあるが、話が通じない。人の言うことを全く聞かないのである。面倒である。

 わたしはもともと子供が好きではない。だから、教員になるときも生徒に関わるのが嫌だなあと思っていた。でもなってしまったものは仕方がない。なんとか慣れるしかないだろう、という後ろ向きの姿勢でいたのである。

 1年5組は穏やかな生徒ばかりで、担任も悪くはないなと思った。学級通信を出すことにした。1年5組なので「15通信」という名前にした。1と5の間に苺の絵を描いて、「いちごつうしん」とルビを振った。いろいろな連絡事項と並べて、わたしの思い出話を書いた。高校時代のこと、大学時代の笑い話であるが、生徒は一週間に一回配られる「いちごつうしん」を楽しみにしてくれた。他のクラスの生徒も「学級通信ください」と貰いに来ることもあった。同じ学年の先生たちにも配ったので、クラスの人数よりも多い枚数を印刷した。パソコンなんてなかった時代だから、すべて手書きである。授業や雑用の合間に時間を見つけて書くのだから1枚書くのに結構時間がかかる。一週間に一回が精いっぱいだった。学級だよりや学級通信とかを出さなくてはいけないという決まりがあるわけではない。出すようにという指示があったわけでもないのだが、せっかく担任になったんだからクラスの生徒になんか「話しかけたいな」と思ったのだった。砂中には他にも学級通信を出している先生はいた。毎日出している強者もいた。

 ある日、他の学年の国語の先生が、吉岡先生、吉岡先生、とわたしを呼んで小声でこう言った。

「石黒先生はさ、学級通信出すのやめたらしいよ」

 石黒艶子(いしぐろつやこ)先生は同じ学年の国語の先生で、わたしが職員室で本を開いていると

「なに読んでるの?」

とチェックしに来る。自分が読んでる本を持って来て

「これもう読んだ?」

「いや、読んでません」

「ダメじゃないのこれ読まなくちゃ」

とマウントを取ろうとしたりする。ライバル意識があるのである。楽しかった。

 石黒先生は熱心に学級通信を書く人だったらしいのだが、わたしが通信を出してからやめたのだそうだ。

「吉岡先生の学級通信見たらさ、これはかなわないと思ったらしいですよ」

「そうなの?」

「自分が一番になれないと思ったんでしょうね」

 石黒先生はこれで終わったわけではない。その後、学級新聞作りに取りかかった。学級新聞というのは生徒が編集して書いて印刷するものである。当時はパソコンも、ワープロもなく、コピーもなかった時代なので、すべて手書きのガリ版刷りだった。B4のわら半紙に印刷するのである。クラスの生徒から新聞委員を選出して指導をする。石黒先生は前任校のときに全国の学級新聞コンクールで一位を取った人なのである。

 2年生の担任になった時にわたしは「紙ひこうき」という学級通信を作り始めた。石黒先生は本格的に学級新聞作りの指導に乗り出していた。その後、学級新聞コンクールに応募したかどうかはわからなかった。

 2年生になってクラス替えが行われ、わたしは1年5組から2年8組の担任になったのだった。吉岡さんは力不足だから担任から外しましょうとはならなかったようだ。1年5組は平和なクラスだったのだが、今度の2年8組は問題の多いクラスだった。

 新学期が始まってしばらくすると、同じ学年の先生たちから苦情が寄せられた。

「吉岡さん、2の8はうるさくて困るよ。どうにかなんないの?」

 わたしの2年8組の生徒はどうしようもないというのだ。とにかく騒がしくて、注意してもぜんぜん聞かないのだそうだ。ひっきりなしに苦情が来るので、そのたびに「済みません!」と言って謝る。生徒たちの授業を受けている様子を伺いに行くと、遠くからでも騒がしい声が聞こえる。教室の後ろからそっと覗くと、わたしに気づいた生徒が「先生来たぞ!」とみんなに伝える。騒がしかった生徒たちは、わたしの姿を見ると、たちまち水を打ったように静かになる。

「吉岡先生がいなくなると、またうるさくなるんですよ」

 一計を案じたわたしは、ある一日、教室に机と椅子を運び込んで、生徒たちといっしょに2年8組の授業を受けることにした。1時間目から給食を挟んで6時間目まで、生徒の様子を伺いながら教室の後ろに机を置いて、一日生徒として過ごした。生徒は静かに授業を受けた。授業をする先生たちはやりづらかったに違いないが。

 この日以来、生徒はある程度落ち着いたようで、先生たちからのクレームは減って行った。

 要するに生徒たちは子供なのである。ただわけもわからず調子に乗っていただけだったのだろう。それと、手のかかる「ワル」も小者ばかりで可愛いといえば可愛い連中なのだった。

 しかし、中に一人だけ「大物」が居た。チエという女子である。床に届きそうな長いスカートを穿き、セーラー服はいつも袖をまくり上げていた。睨みつけるような目つきで周りを睥睨していた。手下を従えてグループを作るタイプではなく、いつも一人で凄んでいた。教員に対しても「何でだよー」とか「うるせーんだよ」と掴みかかって来て遠慮はないのだった。すぐに喧嘩を始めて、手を出してけがをさせたりもする。万引き、シンナーは彼女の日常だった。クラスメートは怖がってほとんど話しかけたりしない。学校も来たり来なかったりで、外で何をしているのかわからなかった。家庭訪問をしてお母さんと話をした。母子家庭だった。

「先生、私はチエの面倒はみられません。なんとかしてください」

と懇願してくるのだった。手のかかる娘だったが、どうしようもなかった。まわりのすべてに敵意を抱いていたのだろう。わたしはチエに手を焼いて疲れ果てた。問題のある子や困った子とつき合っていくのは勘弁してほしいと思っていたのだが、不思議なことなのだが、生徒本人を嫌いになることはなかった。そもそも子どもが好きではなかったはずなのだが、問題児に嫌悪感のようなものを抱くことはなかったのだ。チエと毎日顔を合わせることは苦ではなかった。

 話は飛ぶが、校内には分掌部会というのがあって、教務、生活指導、研究、庶務などといろいろあって、わたしは庶務部に入っていて、机と椅子の数を確保したり、校内の修繕とか、割と気楽なところに配置されていたのだが、2年目になって、いきなり生活指導部に所属することになり、生徒会担当とういことになってしまった。ところが、砂中の生徒会は、名目上の生徒会長と副会長、書記などが居るだけで、実質的な活動はほとんど何もしていなかったというのが実態なのだった。生徒会長も選挙で選ばれるのではなく、先生が指名していた。荒れた学校というのはどこでもそうだったのではないだろうか。生徒会どころではないのだった。しかし、若かったわたしは、生徒会は大切だ!生徒総会がないのはおかしいと考えて、生徒総会を開こうと考えたのだった。無謀である。そもそも生徒総会もないし、委員会みたいなものもないのだが、それにはそうなるしかなかった事情があったのであるが、わたしはそういう大人の事情を理解するには若すぎたのである。若いということは無茶をすることが特権なわけで、わたしはその特権を押し通したのである。

 生徒総会を開催するためには、案を職員会議にかけて了承してもらう必要がある。まず、企画書を作る。いや、その前に学年会にこの企画を出してオーケーをもらい、学年の先生方を味方につけなくてはならない。いや、待てよ、生活指導部会が最初だった。そうだ、生活指導部の先生たちに、生徒総会をやりたいんですけど、と話をしたのだった。そうしたら、先生たちは「いいんじゃないの。やりな」と言ってくれたのだった。不思議なのは、砂中に生徒総会がない(というか無くなった)のにはそれなりの事情があり、生徒総会なんて無理だと思われていたはずなのであるが、なぜ先輩の先生たちは、わたしにやらせようとしたのかということである。まだ教員になりたての新米に任せるというのはどんな状況がそうさせたのだろう?今思い返しても不思議である。

 まず企画書を作った。生徒会の各委員会から活動報告をさせて、それに対して生徒から質問や意見を自由に出してもらう。授業の1時間では足りないので、2時間続きのコマを設定する。これは特別授業になるので、教務の先生に骨を折ってもらわなければならない。体育館に生徒全員の椅子を入れるのはかなり難しいので、校庭に椅子を並べることにする。教室から自分の椅子を各自持ち出すのであるから、総会が終わったら、教室に戻る前に、濡れ雑巾で椅子の足を拭くとか、細かいところまで詰めていった。それを学年会にもかけて、ことあるごとに先生たちに「生徒総会をやるんですけど」と相談して回った。根回しというやつである。前もっていろんな人に生徒総会やります、と吹聴して回った。こういうのをロビー活動というのだろうか。

 企画書は、職員会議の前の企画会議を通って、職員会議でも反対意見は出ず、すんなりと案は通ってしまった。

 これも今考えると、、わたしのような新米が企画しても普通はつぶされるに決まっているのだ。おそらく学年主任の牛丸先生の後押しがあったからなのだろうと考えられるのだ。企画会議で、牛丸先生が、吉岡に生徒総会をやらせてみてくれと強く言ってくれたのだろう。それしか考えられないのだ。牛丸先生が言うのなら反対するわけにもいかないだろうというわけである。

 生徒総会当日、午前中4時間のうち2時間をつぶして総会が始まった。晴天だったので校庭に椅子を並べるのにはちょうどよかった。生徒会長の挨拶に続いて各委員長からの活動報告。続いて、何人かの生徒が質問に立った。じつは、この「何人か」というのは、事前にわたしが質問をするようにと言い含めておいた「サクラ」だった。誰かが最初に質問に立たないと質疑が成立しなくなると考えたのだった。「サクラ」たちの質問が終わると、それ以外の生徒も徐々に質問をし始めた。質問の前にクラスと名前を言うことになっている。何人かの質問が続いたが、途中で生徒席がざわざわし始めた。見ると、3年生のボスグループの一人が質問者の列に並んだのだった。学生服のボタンを全部外して、ボンタンと呼ばれるだぼだぼのズボンのポケットに手を突っこんで蟹股で歩いて来た。周りの生徒たちに手をかざして、おう、おれだと言うようなポーズを取る。生徒席はさらにざわつく。彼の番になってマイクの前に立つと、「3年〇組の▽▽です」と言う。生徒席からは「ですだってよ!」と驚きの声が上がる。彼らが「です」なんて言うのを誰も聞いたことがないからだ。「校長先生にお願いがあります」と続けて「廊下に冷水器をつけてください」とまともな、というか普通のお願いを述べるのであった。拍手が起きた。夏の暑い時は水道の水でなくて、冷たい水が飲みたいというのはもっともな意見であった。校長が前に出できて、「検討します」と答えた。わたしは、この生徒がみんなの前でちゃんとした意見を言った、ということだけで、この生徒総会は成功だったと満足した。

 次の年に、各階の廊下に冷水器が設置された。

 そんなこんなで無我夢中の日々が過ぎていったのだが、例のチエは、あいかわらずのトラブルメーカーで、粗暴さは激しくなっていった。ある日とうとう母親が根をあげて、もう面倒が見切れないと相談に来た。学年会で会議にかけた。結果、施設にしばらく預かってもらうのがいいのでは?ということになった。横浜にある施設で、問題のある生徒を一時的に預かってくれるところだった。チエ本人を呼んで、これこれこういう事情なわけだから、そこの施設に行ってみたらどうかと説明してみた。いきなりそんなことを言われて逆上するかと思ったが、

「わかった」

と小さな声で言っただけだった。

 彼女は、自分のことと今の状況を自分なりに理解し、客観的に判断する力を持っていたのだと思う。

 何週間かして、わたしはチエに面会に行った。施設は横浜にあった。横浜で相鉄線に乗り換えていくつめかの駅で降りて、歩いて施設に向かった。街路樹から覗く青空が眩しかった。

建物の門扉は施錠されていて、インターホンで面会を求めた。建物にも鍵が掛かっていた。中に通されて待っていると、廊下の向こうからチエが姿を見せた。わたしであることを見てとると、彼女は

「せんせー!」

と手を振りながら、笑顔でダッシュしてきた。

(2024年 5月)

03-6228-6195